第2回オンラインフォーラム「原発はやめようよ」報告書より(Part2)

日本聖公会「原発のない世界を求める週間」(2022/6/5〜6/11)の企画として6月5日と11日に開催された『第2回オンラインフォーラム「原発はやめようよ」 』の報告書の内容を、全2回に分けて転載します。

Part1はこちらをご覧ください。

PDF版の報告書は、当サイトの【資料ページ】からご覧ください。

3. 被災者への聞き取りと話し合いのプログラム 6月11日(土)13:30〜15:30

まず、原発を逃れ避難をした方たち3人のインタビュー録画を観ました。

次に、フォーラム1回目の被災地巡礼ビデオと講演、フォーラム2回目の避難者へのインタビュー録画を振り返り、池住圭さん(原発問題プロジェクト委員)からの発題を受けました。

発題の後、1グループ4〜5人に分かれて約1時間、分かち合いの時を持ちました。

インタビュー録画

インタビューに応えてくださったのは「水曜喫茶」の常連さんです。
水曜喫茶は、東北教区の被災者支援プロジェクトが震災直後から福島県新地町で行っているプログラムの一つで、毎週水曜日に開かれるお茶会です(現在はコロナの影響で月1回)。震災から11年半以上経てもなおこのひと時を楽しみに、それぞれ住んでいる所から集まります。楽しい交流の場だけでなく、大切な情報交換の場にもなっています。

ある日の水曜喫茶

インタビューの聞き手は支援プロジェクトのスタッフ渡部正裕さんです。生の声をそのままお届けしたいと思いノーカットです。

Sさん(86歳)

出身地(故郷)はどこですか?

双葉郡浪江町大字川房です。

そこに何年暮らしていましたか?

(出来事を数えながら)50年くらい。

そこでの暮らしぶりを聞かせて下さい。

百姓です。
田んぼ1町歩、山35町歩、畑は1反くらいで暮らして来ました。

原発が爆発した時、どのように避難しましたか?

区⻑様に、ここさいらんないから、ちょっと1週間くらい別なところに避難しなんなって言われて、このカバンに2万円と薬もって避難しました。そして、8箇所回って、新地に来たの。

現在は家を建てて住んでいるのですか?

はい。

先ほど言われていた裁判について教えて下さい。

あ〜新聞持ってくりばよかったなぁ…
裁判やってんだけっども、我々は裁判頼むには下半期、上半期として、1年に約1万5千円から2万円近く支払っています。
それはかかりますけど、裁判が勝つか負けるかは分かりません。7月頃にだいたい分かるようなことは言っています。

水曜喫茶について

ここですか?楽しみにしていますよ。
あの〜、浪江に家あっても、しっかりしてんです。53坪の平家でしっかりしてんです。取り壊すの今度。114号線の側にあるもんだから壊してもらえるの。自分の家の木で、11ヶ月かけてつくったの。その家を今度壊すの。そんな感じです。

Iさん(72歳)

出身地(故郷)はどこですか?

南相馬市小高区

そこに何年暮らしていましたか?

(思い出しながら)30年くらい

そこでの暮らしぶりを聞かせて下さい。

そこにいる頃はお勤めもしてたし、そこで主人も亡くして。すぐ近くに母親と父親といたんだけど、12年に父親が亡くなって、母1人と私と。娘は2人とも嫁に行ったから、隣同士で1軒1軒いたのね。それで、たまたま下の娘が今度結婚することになったので、家に来てたのね。妊娠もしてたし。その時に地震があって…。

原発が爆発した時、どのように避難しましたか?

最初、3月11日にはまだ爆発してなかったでしょ。ただ地震で水道が止まって、電気は通ってたのね。ガスボンベがふっ飛んでて使えなかったから。お水をもらったりして。
上の娘が新地町に嫁に来てたんだけど、家も何も流されたから、私らのところに避難しに来るって言ってたの。そしたら、次の日に今度原発が爆発して、私たちが避難しなくちゃいけなくなったんで、娘達は来なくなって。で、原町区の小学校に避難して、そこから転々と。
落ち着くまで6箇所、避難して歩いて、最後は新地町。仮設にお世話になったん。

この11年間の暮らしは、どんなでしたか?

私たちは原発の避難だから、周りはみんな津波の人たちでしょ。だから、やっぱり、話をしてても噛み合わないのね。やっぱりね。で、全然知らない所だし。だから、だんだん日が経つにつれて空しいっていうか。早く帰りたかったなぁなんで思ったんですけど。
でも、だんだん年もとってくるんで。今度は私が1人でいるのに、小高に帰ったとしても、娘達が行ったり来たりするの大変でしょ。で、新地に住むようにっていうんで、新地に町営住宅を借りているんですけど。
でも、お墓は小高にあるのね。主人のお墓がね。年に3回は行くんですけど、ぜんぜん、顔馴染みには会ったことない。もともと住民の3分の1くらいしか帰っていないから。山のほうの人たちは帰っているんだね。農業だのなんだのするのに。私はいがいと街よりだったから、周りは誰もいないね。

水曜喫茶について

仮設にいるころから、いろいろな方にいろいろお世話になって、楽しい思いさせて貰っているんですけど。だからもう11年が経つんだから、みんなも大変だろうから、こんどはこっちがね、みんなを励ます立場になんなくちゃいけないのに、いつまでも甘えてもいらんないなとは思っているんですけど。ねえ。

Wさん(92歳)

出身地は?

小高町。

そこに何年暮らしていましたか?

何年だべなぁ。何年だかわかんねえな。生まれた時からいる。

そこでの暮らしぶりを聞かせて下さい。

農家。田んぼやってたんだな。

原発が爆発した時、どのように避難しましたか?

爆発の時は小高だね。避難しに、ずいぶん歩いたんだ。
今いるところで9回だか10回だな。(あちこち避難して)。

11年間はどんな思いで生活してましたか?

どんなって、なんだか誰もわかんねえから、全然わかんねえ。今も。

今はどこに住んでいますか?

今は新地町。

水曜喫茶について

わかんねえなぁ。なにがなんだかわかんねんだな。本当に。

その他、なにか言いたことがあれば

ていうか、わかんね。混み入っててわかんねんだ。本当に。わかんなくて。すみません。

発題の抜粋

1回目の講演で、2011年以来続く避難生活は、大変過酷なものだと知りました。 

他方、自主避難をしなかった人や、できなかった人が大勢いることも忘れてはなりません。避難をしなかった人達は、町のあちこちに設置された放射線量を測るためのモニタリング・ポストを見ながら生活をしています。本来は異常な光景のはずなのに、日常になっています。

子どもが体調を崩す度に放射線の影響を思い、避難しなかったことを悔いる人がいます。放射能に対する考え方の違いから、子どもを連れて家を出た人もいます。避難先から戻っても、心ない言葉に傷つく帰還者がいます。

自主避難をした人、しなかった人、できなかった人、人の数だけ苦悩があります。いまだ原発事故による災害は終わっていない、と言うよりむしろ終わることはないのだと思います。

もう一つ、原発を有する国に住む私たちが、今考えるべき問題があります。ロシアがウクライナの原子力施設を攻撃したことです。このような攻撃は、原発や関連施設を持っている限りどこにでも起こり得ます。日本ではウクライナ侵攻を機に、アメリカとの「核共有」に関する議論が高まっています。そればかりか、核武装の必要性についても、より声高に言及されるようになりました。核兵器の製造に必要なプルトニウムを保有するためにも原発稼働を推し進めようとする政府と財界。「原発は、自国民に向けた核兵器」の言葉が現実味を帯びて来ます。

グループディスカッションとまとめ

ディスカッションの内容は各グループにお任せでしたが、大きなタイトルとして「脱原発、脱核を目ざす私たちに、今何ができるのか」でした。
2回に亘るフォーラムを共有した参加者はそれぞれの思いを語り、貴重な意見交換の場になったように思います。

全体でのまとめの時間では、体験者の声を聴くこと、原発を止めるための具体的なビジョンを示すこと、省エネ、節電、エネルギーシフトの自らの実践と、具体例を紹介し広めることなどが大切なこととして確認されました。そして、何より、次世代の子どもたちのために、未来のビジョンを示す必要性が確認されました。

最後に、私たちが取り組む宣教課題は、「いのちと平和」が最優先されるべきであるとしました。

4. おわりに

去る5月31日~6月2日、対面形式で開催された日本聖公会第67(定期)総会で、「原発のない世界を求める週間を継続する件」が決議され、2023年から2026年までの毎年、「地球環境のために祈る日(世界環境デー6月5日直近の主日)」から始まる1週間を、「原発のない世界を求める週間」として継続されます。
私たち日本聖公会にとって「原発のない世界」の実現は末永く取り組む宣教課題の1つです。
皆さんと祈りと力を合わせて核兵器と原発のない世界に向かって出エジプトの旅を続けて参りたいと願っております。

PDF版の報告書は、当サイトの【資料ページ】からご覧ください。