連載 福島からのぼやき(第1回)『私が原発周辺で生活していた頃1 ~原発との遭遇 柏崎刈羽原発と東海発電所~』

浅原和裕さんは原発問題プロジェクトのメンバーで、福島聖ステパノ教会の信徒です。福島市内に住んでいます。

連載「福島からのぼやき」では、福島市だけでなく、仕事での赴任先や旅行先で経験した原発について、感じたことや思ったこと、考えたことなどをぼやいています。福島市内に住んでいるからこその、率直で暖かな「ぼやき」です。の「ぼやき」に、「へー、そうだったのか、なるほど」とか、「いま一つ分からないなぁ」とか、「まさかぁ」、「さすが」などなど、ご自身の突っ込みを入れながら読んでみてください。

浅原さんは、通勤路にある放射線線量計(モニタリングポスト)を見ながら毎日を送っています。何を感じ、何を考え、何をぼやいているのか・・・。
また、仕事で新潟県南魚沼郡(現・南魚沼市)や茨城県勝田市(現・ひたちなか市)に赴任し、それぞれの地で「原発とは近い距離感で生活」して来ました。ぼやきの中では「原発との遭遇」と表現していて、5回にわたる遭遇をぼやいています。今回は、第1回目の遭遇(東京電力柏崎刈羽原発)と第2回目の遭遇(日本原子力発電東海発電所)をお届けします。

原発問題プロジェクト 浅原委員のぼやき 2024年3月19日記

原発問題プロジェクトメンバー
福島聖ステパノ教会 浅原和裕

皆様へ

能登半島地震に関係された方々に心から哀悼の意とお見舞いを申し上げます。これから支援の輪が広がってゆくことを祈っています。ひとまず志賀原発に異常がなかったという発表があったことは何よりでした、と思っていたら発電所内で停電やらモニタリングポストの一部が測定不能だの相当後からこの情報が入ってきたりしています。今後問題がないことを切に祈ります。

さて、表題の通り、ぼやくことの意義ですが、福島市に住んでいると今や本当に特殊な地域になってしまったと思うので、やはり現地からの発信がないとやがて忘れ去られるのではないかと恐怖の感情が沸き起こります。以下、日本聖公会の2023年「原発のない世界を求める週間」のオンラインプログラム「祈りのリレー」の6月6日に私が担当させていただいたときの原稿を紹介しようと思います。当時20分間お話しすることになっていましたが、なにぶんにもド素人故、言いたいことの約半分しか皆さんにお話しできなかったのです。
ここに、一人の庶民転勤族の話としていくつかに分け、今の心境も加味して「ぼやき」ます。何回も聞いたよとおっしゃる向きあるかもしれないけれど、無知なるがゆえにそうだったんだと皆さんに知ってほしい向きもありまして公表したいと思います。お読みください。

ぼやきはじめに

2011年3月11日に「東日本大震災」が起きました。地球は生きていますから、たまたまこの地域で起こることとなったのです。今も大きな地震が全国で起こっています。その度に「○○原発の異常は報告されていません」が決まり文句になっています。

毎日線量計を見ています。私の通勤路に3カ所設置されています。ご存知の通り放射線には色も臭いもありません。一つは立正佼成会の広い駐車場の一角で歩道から覗き見られるもの、一つは福島西公園の一角、一つは福島駅西口で観光物産館コラッセと駅口の間の日陰の地点です。ここ10年間0.1○○μ㏜/hで、μ㏜/hの数字がほぼ一定です。ほんとに減っていくのか疑問です。因みに、2024年の3月16日時点での空間線量は東京都新宿区で0.036μ㏜/h、名古屋市で0.038μ㏜/hでした。で福島駅西口で0.117μ㏜/hです。比べてみればまだまだ高いんです。改めて小数点の意義について勉強させられます。

この状態で・・・・生き続けられるとして・・・・
線量計の周りだけ一生懸命除染しても下がらないんですからね、まったく・・・・
機械のトラブルが有れば直すのではなく撤去したいのが当局の考えなんですね。部品がないなんて言って、いつまでも置いておきたくないんですね。これが・・・

私が原発周辺で生活していた頃1

私の身の上話から「原子力立地交付金」や原発の近くに住まいしていた時の話を始めます。原発とは近い距離感で生活していたんです。

第1回目の原発との遭遇(1981年 柏崎)

1981年に新潟県南魚沼郡六日町(現 南魚沼市)に赴任した時です。
中間山地地帯の中の盆地地帯で、柏崎刈羽原発のある柏崎市からも距離があると思ってましたが、道路が上ったり下りたりが多い地区でしたので実質そんなに距離はなかったのですが全く意識しておりませんでした。

②第2回目の原発との遭遇(1984年 東海村)

茨城県勝田市(現 ひたちなか市)に配属されまして、営業で東海村を担当しておりました。社内では、日本原子力発電(株)第1号炉の諸施設の大きな契約を貰ったということを、社内報やリクルートの謳い文句にも取り上げていたんです。なんとなく名誉に思ってました。ああここが東海村なんだと。でも何で「村」といってるの?固定資産税の上りが膨大なので町に昇格させる必要がないし、世界の東海村で通しているので変更するとややこしい。!へー!!

文字通り「原発ムラ」が「原発マネー」で潤っている典型(第1号)なんですね。

27歳のころです。1984年。景気はバブルの直前のころですが、日本のパラダイスという感じで特に営業マンにとってはお楽しみのおいしい昼食を食べられるところがたくさんありました。村の発展にともなってたくさんの夢見る料理人が入って来てたんですね。この時代チェーン店とかフランチャイズなんてあんまりありませんから。腕一本で頑張れるそんな時代だったのだと思います。

当時あんまり考えずに正式名称「原子力発電施設周辺地域立地給付金」略称「原子力立地給付金」を自動的に貰ってました。ああ近くにいるから割引してもらえるんだと。原発の危険手当なんですよ、要は!ひょっとしたらこの危険手当をもらっている方も今日のプログラムに参加しておられるんではないかと思いますが如何でしょうか?(各電力会社が払っているように見えますが、政府の交付金の一部なんですよ。合計で年間約4兆円も使ってるそうですよ!)春の季節には近年ネモフィラの花の群生で話題になる、ひたちなか市にある「国営ひたち海浜公園」と東海村とは海沿いに隣合わせなんですよ。ご存知でしたか?

今でも思い出します。『明日の光原子力』「希望の力原子力」とか標語が東海村役場とか銀行とかにもポスターが掲示されてました。村の発展の中で誰も疑ってなかったのです。

ここが怪しくなったのが、JCO東海事業所の「臨界事故」です。1999年これは原発内ではなく核燃料を製造する工場内でのことで7倍のウラン溶液を誤って使用し、何とバケツで作業していたなど驚かされたものでした。村民の避難を伴うもので、国際原子力機関 (IAEA)の国際原子力事象評価尺度でレヴェル4、工場内で2人亡くなりました。

(第2回に続く)

連載第2回目は、
「私が原発周辺で生活していた頃2 ~原発との遭遇 チェルノブイリ(チョルノービリ)原発、柏崎刈羽原発、福島第一・第二原発~」

第3回目の浅原さんの「原発との遭遇」は、チェルノブイリ(チョルノービリ)原発事故。セシウム137が観測されたミュンヘンでのぼやきです。第4回目の遭遇は、新潟県の柏崎刈羽原発、第5回目の遭遇は、福島県の福島第一原発、第二原発です。

何をどうぼやくのか、次回も是非お楽しみに・・・。