ぼやき「一握のデブリ」
浅原和裕さんは原発問題プロジェクトのメンバーで、福島聖ステパノ教会の信徒です。福島市内に住んでいて、仙台市への通勤路にある放射線線量計(モニタリングポスト)を目にしながら日常を送っています。
今回は、日本に溜まり続ける放射性廃棄物(核のゴミ)の最終処分方法がみつからないまま、それでも進められる原子力政策に疑問を呈しながらぼやいています。
原発問題プロジェクト浅原委員のぼやき 2025年6月6日記
ご無沙汰しております。思い出したように続けさせていただきます。
1966年商業用原子力発電所の運転開始から約60年、もはや不条理の世界に踏み込んでいるとしか思えない原発政策。
核廃棄物についての政策が決まらず先送りされてきて、様々考えられていて例えば地上管理、宇宙処分、海洋投棄、氷床処分、地層処分。放射能が低減するまでの数万年どうやって管理するのか?今有力となっている方法に地層処分があるらしいがこれだって、①埋めたらすぐ状況がわからなくなる。 ②少しずつでも必ず漏れ続ける。 ③何といっても長いタームなので地殻変動の影響を受けやすい。④数万年という単位では、地上に対する影響についてどのように管理していくのかが更に先送りされてしまう可能性がある。埋めたら終わり、フェードアウト(忘れ去られて)。当事者同士も忘却の彼方で、いつの間にやら訳が分からなくなり、謎の汚染地帯となってしまう。許されないでしょ!
そもそも原発の存在は、
- 地上ではいつ爆発するか、核物質が漏れ出すか、天災であれ、人災であれ、大きなリスクを抱えていることがわかった。
- 核廃棄物の処分の目途がたたず、たとえ地層処分したとしてもその後どうやって管理するのか。まず長い間でフェードアウトされかねず、何万年も先に、核物質が漏れ出しても、原因不明で処理され、子々孫々に重大な被害を及ぼすリスクが発生する恐怖。
- 想像力の欠如とマネー欲にかられ大事故を想定できず、安全神話に酔いしれて、ほとんど手を打たずに海岸べりに多くの原発を設置してきた結果、放射能を無力化するすべを知らない人類は、持ってはいけないものを持ってしまった。
- 多くの国民の犠牲を出し、事故処理をするのに膨大な年数と費用がかかる現実をみれば、廉価で発電できるというのはとんでもない大きな誤り。
- 原発が無い、もしくは無くすという前提で電力政策を考えない政府。どうかしてる。
マイナス面ばかりなのに、不条理に尽きますよね!!
一定進んできている自然エネルギー発電。だが、環境破壊の苦情が出ると、これまたすぐ対応しようとして、将来の発電構想を止めてしまいかねない市町村行政もあり、それで尻込みしてしまうデベロッパー、その結果さらに原発政策を支える形となる。
国民の犠牲が高まることを承知で進んでいく原発再稼働、あと戻りができない状況。
不条理としか言いようがない。いつかまた必ず大惨事は起こるだろう。
原発内での細かな事故は発表されたもの以外でも恐らく隠蔽されながら過去にもたくさん起こっているはず。やはり、海沿いの原発周辺に住む人々は十分な避難経路を確保しつつ、警戒を続けたほうが良い。
福島第一原発の事故では、私たちに降りかかった放射能は全体の20%であり、風向きで80%は北東の海上に飛んで行ってしまったことを覚えておいてほしい。
万が一、新潟県の地震地帯の世界一の原発設備である柏崎刈羽原発に惨事が起こったらどうなるか? 答えは差し控えたい。
この不条理が際立つ事故後の世界で、一首浮かび。
『一握のデブリ』
取り出せど 取り出せど猶 この廃炉 楽にならざり ぢっと世を見る
僅かなデブリ取り出しにさえ四苦八苦しているこの状況を啄木先生はどう見るでしょうか。
(文責:原発問題プロジェクト委員・浅原和裕)