クリスマスの指し示すもの

主教 植田仁太郎

 毎年この時期に、キリスト者としてくり返し言わなければならないことがある。それは、クリスマスというものが、余りに世俗化してしまった(宗教や信仰と無関係に祝われている現象)故に、その真実を、語ることが大変難しいということである。聖書に記され、残されている、イエス・キリストの誕生物語さえ、イエス・キリスト誕生そのものの意義を充分に表現しているとは言えない。

 ただし、イエス・キリストの誕生という事実が無ければ、誕生物語も語り継がれなかったし、聖書も書き残されることもなかった。そこに、クリスマスの真実性があるようである。イエス・キリストの出現という歴史上の一点がなければ、キリスト教という宗教やそれから派生した広大なキリスト教文化や、その周辺の世俗化したクリスマスも無かっただろうという認識こそ大切であるように思われる。

 そのキリスト教文化の一部に、いわゆる西暦、AD・BCという年の数え方がある。イエス・キリストの出現を起点として、その前と後とに時の流れを分けて、年を数えることにしたあの考え方である。(実際には、キリスト誕生の年の数え方のミスが後で判明して、誕生の年はBC4年とされた。) それでも、誕生を起点として前後に歴史を考えるという、その原則は貫かれた。

 これを単なるたまたま広く通用するようになった便宜上の年の数え方だ、と一蹴してしまうこともできる。しかし、私は信仰者として、そのようにたまたま広く採用されることになった慣例のうちに、世界と歴史と人間の中心を、はからずも私たちに指し示す、そういう真実を見ている思いに駆られるのである。