神さま助けて

主教 アンデレ 大畑 喜道

 聖アンデレ教会では復活日に大人たちが子供達に向けてイエスの生涯の劇を見せています。毎年いろいろな趣向を凝らしてそれこそ大人が本気でやっているので、今年も、イエスを十字架に架ける前の場面で、兵隊たちが鞭打つ場面で、小さな子供達が泣き出してしまいました。そんな劇を見ていて、ヘロデが手を洗う場面が出てきます。もはや責任はお前達にある。自分には何も関係が無い。そのように宣言する場面です。イエスの処刑で起こる様々な問題の責任は自分達で処理せよと言うものです。ユダヤ人たちもイエスの血の責任は自分達にあると応答します。自己責任という言葉があります。流行り言葉のように自己責任ということが言われてきました。確かに何かの失敗をしたらその責任は個人にある場合もあるでしょう。誰も責任逃れをして責任をとろうとしないのも考え物ですが‥‥。誤解を恐れずに語るとすれば、失敗が自分だけの責任であってもはや取り返しが付かないと思ってしまってよいものなのでしょうか。自分が悪いのだから仕方が無い、自分の努力が足りなかったからだ。本当にそうなのかなと思う時もあります。そうやって自分を責めてしまうと「助けて」と言うこともできないようになります。自分を責め続けて諦めてしまうことが社会の中で当然だと思わせてしまってはいけないのではないかと思います。時には「助けて」と声をあげて、それを助けあっていく社会が健全な社会ではないかと思います。聖書にはイエスに対して、自分から「助けてください」と懇願する人々がたくさん出てきます。イエスはいつももう一度やり直しができるよ、大丈夫だよ、もう一回、一緒に寄り添ってあげるから立ち上がってご覧なさい。そうやって一人一人を回復させていきます。教会もイエスを中心に生きる共同体であるならば、一度や二度の失敗で自分を責めて諦めるなといい続け、いつでも戻ることのできるよう、一緒に立ち上がろうと言えるような場所になって欲しいと願っています。