新主教からのメッセージ

主教 フランシスコ・ザビエル 髙橋 宏幸

 物事には得手不得手とありますし、皆が皆プロになれる訳でもありません。しかし、そこには教え方、教わり方というものも大きく関わっているようにも思えます。例えば、スポーツの世界では、「もっと足を動かせ!」「膝を柔らかく使え!」「もっとしっかりボールを見ろ!」と、何度も何度も言われますけれども、誰もが直ぐに出来るようになれば苦労は要りません。幾ら励ましているつもりでもあっても、肝心の相手に叱責としてしか響かなければ、却って緊張感を与えるだけでしょう。
 むしろ、なぜ上手くいかないのか、その理由を一緒に考えるという大切なプロセスを経て、さらにこういうアドバイスの仕方もあるはずです。それは、「あと一歩頑張れば追いつけたぞ!」「今のボールは生きていたぞ!」「体の軸がぶれていなかったから、今のボールは体重がのっていたぞ!」等々、いいところに目を付け、褒めることで、技術が上向きになるだけではなしに、余分な緊張もほぐされていくことでしょう。
 スポーツに限らず、どうしていいか分からずにいるところへ、やれ「下手だ」、「何で早く走れないんだ!」と厳しく言っているだけでは、相手には励ましとしては響き難いことでしょうし、加えて余分な緊張をも強いることになるでしょう。否定的な言い方や発想よりも肯定的なものの言い方や発想は、その先に生み出す可能性を遥かに豊かに秘めているはずです。
 イエス様は、ものわかりの悪かった弟子たちを見放すこと無く、優しく、時に厳しく育て続けられました。そして、その根底に置かれていた心とは「無い物探しの心」ではなしに、「有るもの探しの心」でした。もっとも、無いものを探し続けても、無いものは無いままです。有るものを探し、一緒に喜ぶ、そこには人を育て、伸ばす極意とも言えるものが潜んでいたことでしょう。無いもの探しにエネルギーを費やすことではなく、有るもの探し、与えられているもの探しにエネルギーを注ぎたいものです。

2019年1月18日