ようこそ東京教区の新ホームページへ

2016年7月1日、10数年ぶりに日本聖公会東京教区のホームページが全面リニューアルしました。

東京教区のサイトを訪問していただき感謝いたします。

このサイトに訪問してくださった理由は様々だと思いますが、少しでも皆様のお役に立てればと願っています。

キリスト教に興味があるけれども初めてだという方に向けてのページ、他の教区から来られて東京教区や教会の礼拝や行事について情報を得たい、また教区青年会や災害対応として取り組んでいることを知りたいなど、様々な情報の発信を行うためのバナーがあります。様々な情報を検索していただき、ご活用くださることを希望いたします。

日本聖公会東京教区主教 大畑 喜道

金なんか要らないよ、きれいな海を返してくれ

主教 アンデレ 大畑 喜道

DSC_0136_r

 10月の主教会は福島県郡山の聖ペテロ聖パウロ教会で行われました。

 毎回、主教会では人権の学びの時を持っていますが、今年は最終日に福島第1原発の被災地域を訪問し、仙台まで被災地を訪問しました。高速を降りてすぐにガイガーカウンターが警告音を発しだしました。促されてマスクをし、立ち入り禁止区域近くまで行きました。かつては子供の声が聞こえていたであろう学校は草に覆われ、駅舎も線路も草が生えていて、本当にこれが現実なのかと思い知らされました。除染中というのぼりだけがたなびく中、時折、工事車両だけが通り過ぎていきます。除染した土を入れた袋がうず高く積まれています。全くのゴーストタウンの中を訪問しながら、再びこの地で笑顔で食卓を囲むときは来るのだろうか、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。これから私たちはどのようにしていけばよいのだろうか悩んでしまいました。

 新地町の仮設で被災された方々と話す機会もありましたが、「試験操業でとれた魚を孫に食わせてやれないこの悔しさや、切なさがわかりますか」と迫られて、大震災から4年以上たって、しわ寄せがますます弱者に押し寄せている現実に私たちは、決して忘れない、祈り続けますとしか言えませんでした。

「金なんか要らないよ、きれいな海を返してくれ」その声がいつまでも頭から離れませんでした。東京に住んでいる多くの人々はニュースも聞かなくなり、その現実が分からなくなってしまっています。少しでも思い起こし祈り続けていきたいと思います。

スーパードクター

主教 アンデレ 大畑 喜道

 精神科医とお話をする機会がありました。自分は切ったり張ったりするようなゴッドハンドも持たない。外科の先生のように派手ではないし、感謝もされない。自分のところにやってきて何かが解決すると来なくなる。怒こられたり、罵声を浴びせかけられることもある。しかし派手に治すことができなくとも、感謝の言葉をいただかなくても、自分が寄り添った患者さんが立ち直ってまた一歩を踏み出してくれるのは何よりもうれしい。現代社会は複雑になり、気持ちの整理がなかなかできないで、助けてともなかなか言えないような苦しむ人がたくさんいる。自分はそんな人の少しでも役に立てたらと思うんです。牧師さんも同じですよね。何か、目に見えるような、派手な技術はないけれども一緒に祈っていく中で、また勇気を与えられて立ち上がっていく人がいる。まさにこの世のスーパードクターですね。ちょっと面はゆい感もありましたが、自分の召し出されている役割を垣間見た瞬間でした。

数  独

主教 アンデレ 大畑 喜道

 小職の妻の趣味はいろいろありますが、数独もその一つです。毎日の日課のようにしています。ルールは単純なものですが、はまりこむようです。目をしょぼしょぼさせながらやっているので、時々、脇からここはこうではないかと余計な口をはさむと、たいてい間違っているようです。升目に空いた数字を埋めていって完成させる。隙間を埋めていくのに何が面白いと思う方もあるかと思いますが、ふと思うに牧師の仕事もこれと同じようなものかもしれません。何か物足りない、むなしい思いを抱いている心に寄り添い、神からの大きな恵みを埋めていく。周りから時々、ちゃちゃが入っても、神の言葉をしっかりと抱いて、ともに祈りあい、隙間を埋めていく。世の中の人からは何が楽しいのだと思われようが、目の前に隙間があるのを見つけると、神の恵みでいっぱいにしたくなる。時には周囲の誘惑に騙されると、とんでもないことになってしまうこともあります。しかし毎日、振り返り、神の恵みをしっかりと見つめていくことが大切なことです。こんな素晴らしい仕事に召し出されて、今年も神学院に入学する人が与えられました。本当に感謝です。毎日、毎日この世界で悩みや悲しみで心がむなしくなっている人のそばに寄り添い、祈り、恵みを埋めていく尊い仕事をしていく人を、神は今日も探しておられます。

只管打座 (しかんたざ)

主教 アンデレ 大畑 喜道

 先月、主教座聖堂の主催で教役者の黙想会がナザレ修道院行われました。聖職按手前にリトリートをすることはありましたが、2泊3日の間、沈黙のうちに神と対話したのは、久しぶりでした。携帯電話もパソコンも持ち込みは禁止、朝の祈りの時から黙想三昧は、大変に素晴らしい霊的な養いになりました。神との対話を楽しむことよりも何かをしなければ、これをしなければと最初のうちは雑念にとらわれていますが、何もしないで、神との対話に身を委ねていくと、いろいろなものから自由になり、心も体もすっきりします。そして聖書の御言葉が心に響いてきます。日ごろ、何かをすることで安心する自分が神によって解放される恵みの時。これは信仰者にとって本当に大切なことです。しかし少しばかり時間と訓練も必要です。 大斎節が始まりました。様々な教会グループでも黙想会が開催されていますが、教区の皆さんが少しでも良い、神様との恵みの時を過ごすことができますように。ナザレ修道院では個人的な黙想のために宿泊をすることも可能です。ぜひ一度お訪ねになりませんか。聖公会の大切にしてきた霊的なものに出合うことができると思います。

ピ ア ノ

主教 アンデレ 大畑 喜道

  私は音楽は好きですが、楽器となるとまったく才能がないようです。子供のころ、ピアノの練習を嫌々させられたからでしょうか。最近、音楽用語の本を読んでいて、改めて気づいたことがあります。ピアノというのは弱くとか優しくとか訳される強弱記号ですが、ただ単に弱く弾くとか、強く大きい音を出すとかということではなく、優しく美しい、繊細さが要求される。それによって一つの曲が大きな広がりを持ってくるのです。大きい音だけでは一方的な騒音にしかならないでしょう。

  さて今度は楽器のピアノの歴史を考えるとそんなに古い楽器ではないようです。ものの本によると1700年代に最初のピアノのようなものが発明されたようです。当時、貴族たちは、自分のために楽器を作らせることが多く、フィレンツェのメディチ家の王子もその一人でした。彼はメディチ家に仕えていたクリストフォリに、チェンバロの改良を依頼しました。その頃、鍵盤楽器はチェンバロが主流でしたが、音が強弱に乏しいのが難点だったのです。クリストフォリはそれを改良し、「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(ピアノもフォルテも出せるチェンバロ)」を創りだし、それが徐々に改良されて現在の楽器になったようです。そしてこの時、この名前が短縮されて、「ピアノ」と呼ばれるようになりました。省略すらならフォルテでもよかったはずですが、小さな音を大切にしようという神様の大きな計画がそこにあったのかもしれません。この世界はどうしても声の大きい人が勝利する傾向があります。しかし教会はこの世界の中で本当に小さい音しか出せない人の声も大切にしていくことが求められているのではないでしょうか。この世界での小さな声を大切にしていくということは言葉では簡単ですが、実際に実行することは大変なことです。しかしどんなに困難であっても教会はピアノを大切にできるような共同体でありたいと思います。

使命を共有し、互いに支え合う教会を目指して

主教 アンデレ 大畑 喜道

 新たな年を迎え、主の祝福が皆様の上にありますように祈ります。

 皆様がたはどのような新年を迎えられたでしょうか。私たちは神様からのたくさんの恵みをいただいて今日まで過ごしてまいりました。昨年は教区成立90周年の年であり、新しい一歩のためにキックオフの年といたしましょうと年初に申しました。思いかえしてみると、昨年もたくさんのことがありました。台風の被害によって、大島には甚大な被害がありました。またフィリピンを襲った台風も多くの人々の当たり前の喜びをあっという間に呑み込み、生活を奪っていきました。世界中では自然災害だけでなく、自己中心的な思いのぶつかり合いが、血で血を洗う争いになり、その犠牲はその周辺のもっとも小さくされている人々に強いられている状況が繰り返されました。アフリカ諸国や中東諸国の争いは激しくなるばかりです。一方で、新しい年を迎えて、私たちはあまりにも幸せで、安全で、もちろんニュースが伝えられた時は、必死に祈りました。悲惨な状況を思い祈りながらも、次第に忘却の彼方へと押しやってしまっている自分のふがいなさ、信仰の連帯と言いながらも自分の生活に汲々としている罪深さを痛感します。私たちはいつも、すべての人が完全な和解と交わりの中に生きることができるようにと祈り続けています。私たち、私だけではなく、神に創造されたすべての者が平和に生きることができるようにと私たちは召し出されたのです。

 今日選ばれた福音書は、弟子の召し出しの物語です。神に召し出されたものは網を洗って準備をしていました。漁に出ることと、準備をすることはなかなか目に見える成果もなく、骨の折れる作業です。しかししっかりと準備をしなければ漁に出ることはできません。きちんと呼びかけに応えられるような準備をしているかどうかが試されている時期でもあるかと考えます。神の召しに応えていくために、私たちは何をしていけばよいのか、第一に考えなければならないのは、神は何を求めておられるかということです。そのために私たちは日々、神のみ言葉に向き合わなければなりません。そして向き合っただけでなく、そして日々み言葉によって励まされて、自分を変えていく決断をしていかなければなりません。私たちは弱い存在です。しかし私たちには信仰の仲間がおります。互いに支えあいながら、主のみ言葉を噛みしめ、礼拝生活を大切にしてまいりたいと考えます。主教に按手されて以来、世界中の教会から様々なニュースが飛び込んできます。様々な方々が東京教区にいらっしゃいます。多くの友に出合う時、生きることに本当に困難を覚えながらも、必死に神の宣教のために生きようとしている仲間が世界中にいるということを実感します。あらためて言うまでもなく教会は私の教会ではなく、世界大に広がる大きな共同体です。そんな大きな広がりの中で、私たちは神に生かされている、恵みを与えられている、それをしっかりと受け止めていくことが私たちがまず大切にしていかなければならないことでしょう。そのために一致団結していくことの大切さを痛感しています。あの人が嫌い、この人が邪魔というような仲良しグループを形成していくようなことは慎まなければならないことです。使命を共有する仲間として互いに支えあう教会共同体を目指してまいりましょう。

 海外との関係でいえば、今年は日韓の両聖公会の交流が始まってから30年の年で釜山(プサン)教区成立40周年になります。東京教区は隣国との相互依存と相互責任を果たすべく、東京と釜山との間で始められたBTプロジェクトを管区の交流よりも早く始めています。もう一度、大韓聖公会とのかかわりを再確認し次の世代につなげていければと願っています。

 2011年3月に発生した東日本大震災は、現在も尚、わたしたちにとっての現実的な課題が残っています。この震災復興の働きのために皆様方の祈りと支えによって大きな募金をお捧げすることができましたことは本当に感謝です。しかしこれで終わりではありません。一応の区切りは付けましたが、今後も私たちのできることをしっかりと続けてまいりたいと考えています。東京には今なお、原発の事故によって、故郷を奪われて、いつ戻ることができるかわからない状態でいる人々がたくさんいます。東北教区を中心とした「大事に東北」ともう少し広がりを持たせて、私たちの生活の質の変革も含めた「原発問題」への取り組みに積極的に参与してまいりましょう。
私たちは2011年の東日本大震災によって、日本における主イエス・キリストの働きに参与するわたしたちキリスト教会にとって背負うべき「わたしたちの課題」を突き付けられたと認識してきました。大きな犠牲にあった人々のことをいつまでも忘れずに、一人一人を大切にしていこうという呼びかけを再確認してまいりましょう。わたしたち東京教区は、他の日本聖公会諸教区と、とりわけ直接の被害をこうむった東北教区との協働において、自らの課題を背負う働きを展開し続けてまいります。具体的には聖職の派遣や、人的交流などをより一層深めてまいりたいと考えています。こんなに人的に教会の牧師が不足している中で、なお支援できるのかといぶかる方々も多いかと思います。もちろんそのためには、皆様お一人お一人の協力が不可欠であることは言うまでもありません。復興の道は、今なお遠く、課題が多いことをしっかりと心に留め、わたしたちの協働の働きをさらに進めることの具体化に教区を挙げて進んでまいりましょう。

 教役者会は毎週第3日曜日に主教座聖堂に集まり祈りの時を持ち続けています。それは今年も続けてまいりたいと考えています。各教会においても教役者が参加しやすい環境を作っていただきたいと切にお願いします。一致し心を合わせて祈り合うことを大切にしていきましょう。震災から3年が経過しようとしています。幸いにも東北教区の主教座聖堂も3月に竣工できる予定でいるようです。この3年間をもう一度振り返りながら今後の歩みをしっかりとしてまいりましょう。一緒に歩くことは大変に難しいものです。自分を捨てていく覚悟がどこかで必要になってきます。自分を変化させることを恐れずに、キリストが死んで復活したことを信じている私たちならば不可能なことではありません。神が望まれていることの実現のために自分を捨てて、自分を変えて協力してまいりましょう。

 さらに東京教区主教として、新たな年を迎えるに当たって、これまでの在任期間を思い、来るべき新たな一年を考えると、多様な課題に直面していることは当然のことですが、その課題の重さに身の引き締まる思いがいたします。しかし幸いなことに、去る11月の定期教区会において具体策を皆さんとともに教区のビジョンやアクションや方策を考え実行していこうとするために新しいプロジェクトチームが立てられました。昨年は財政委員会によって今後のシュミレーションを信徒懇談会の場においても、教役者会においても分かち合いました。現実の把握も大切ですが、神の宣教の器として成長していくために手をこまねいていたり、だれか任せにしていたのではいけません。互いに近隣の教会と手を取り合うことの大切さ、そして何よりも誰かがやってくれるのを待つというよりも、自分も福音宣教のためにめされているものだという自覚を強く持っていただきたいと願います。今年は各教会におきましても、自分たちの歴史や伝統をしっかりと踏まえたうえで、今、教区として何をしていく必要があるのか、そのために自分たちは何かできるのかを明確にしていただきたいと考えます。聖職者が不足していることを悲観して立ち止まってしまうのではなく、そこにも大きな恵みが与えられていることをしっかりと受け止めてまいりましょう。今後も数教会が協働で、また、支えあって、聖書研究会などの働きを実施していくこと、礼拝の共有などを進めていくことで、自分だけの教会という枠組みを外していきましょう。変化し、また新しいものを作っていくことは大変な作業です。しかし私たちには信仰が与えられています。教区の成立の時に、関東大震災が起こって、その時に、マキム主教が本国に、「すべてがなくなった。しかし信仰が残った」と誇りをもって打電した伝統が東京教区の伝統です。この伝統をもう一度思い返していただきたいと考えます。私たちはこれから次の世代の人々に対して、「あの時の東京教区は素晴らしかった。どんな困難があっても一致し、信仰共同体とし神の働きのために邁進していたね。先輩たちに感謝します」と言われるように、歴史に残るような行動を起こしましょう。先輩聖職の皆さんの牧会経験、専門的な知識、経験、神学的な素養、また信徒お一人お一人の信仰生活の積み重ねは東京教区の極めて大きな財産です。与えられた財産をしまいこむのではなく、神がなさろうとしていることの実現のために積極的に活用してまいりましょう。

 過渡期は一時的な混乱が生じます。しかし方向をしっかりと見据えていれば不安になることはありません。先頭にたっているイエスを見つめ続けましょう。新しいプロジェクトの方々と共に、教区会においてビジョンの策定、方向性を教区に言葉化して提示できればと考えています。教区再編成の委員会ができたからすべてがうまくいくということではありません。大きな混乱も起こる可能性があります。しかしまず聖職団も一致し霊的な生活の向上を努めてまいりたいと考えています。昨年は主教座聖堂において、信徒連続講座を開催していただきましたが、今年も引き続き、学びの機会や霊的成長の場を提供していきたいと準備しています。互いに責任を明確にしていくことが大変に重要な課題です。私たち聖職者たちの協働的な働き、ことに神学研究、牧会訓練などの、聖職者にとっての生涯学習の必要性を再度申し上げたいと思います。

 教役者も、信徒もそれぞれの責任と自覚をもって、熱心に学び、教会の多様な活動を創造してまいりましょう。主イエス・キリストに従うために、しっかりと準備をし、主の召し出しにすぐに応答できるようにしてまいりましょう。教区成立100年に向けて、新しい歩みを開始した第二年目です。これから信徒や教役者各位と十分に話し合い、理解しあっていきたいと願っています。今年も皆様の祈りと協力をお願いします。ともに主の定められた信仰の告白を共に唱え、一致のスタートといたしましょう。

2014年1月11日 主教座聖堂にて