大斎節第四主日 2014年3月30日(日)

 

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ヨハネによる福音書 9:1-13, 28-38


()まれつきの盲人(もうじん)をいやす
  1さて、イエスは(とお)りすがりに、()まれつき()()えない(ひと)()かけられた。 2弟子(でし)たちがイエスに(たず)ねた。「ラビ、この(ひと)()まれつき()()えないのは、だれが(つみ)(おか)したからですか。 本人(ほんにん)ですか。それとも、両親(りょうしん)ですか。」 3イエスはお(こた)えになった。「本人(ほんにん)(つみ)(おか)したからでも、両親(りょうしん)(つみ)(おか)したからでもない。 (かみ)(わざ)がこの(ひと)(あらわ)れるためである。 4わたしたちは、わたしをお(つか)わしになった(ほう)(わざ)を、まだ()のあるうちに(おこな)わねばならない。だれも(はたら)くことのできない(よる)()る。 5わたしは、()にいる(あいだ)()(ひかり)である。」 6こう()ってから、イエスは地面(じめん)(つば)をし、(つば)(つち)をこねてその(ひと)()にお()りになった。 7そして、「シロアム-『(つか)わされた(もの)』という意味(いみ)-の(いけ)()って(あら)いなさい」と()われた。そこで、(かれ)()って(あら)い、()()えるようになって、(かえ)って()た。 8近所(きんじょ)人々(ひとびと)や、(かれ)物乞(ものご)いをしていたのを(まえ)()ていた人々(ひとびと)が、「これは、(すわ)って物乞(ものご)いをしていた(ひと)ではないか」と()った。 9「その(ひと)だ」と()(もの)もいれば、「いや(ちが)う。 ()ているだけだ」と()(もの)もいた。 本人(ほんにん)は、「わたしがそうなのです」と()った。 10そこで人々(ひとびと)が、「では、お(まえ)()はどのようにして(ひら)いたのか」と()うと、11(かれ)(こた)えた。「イエスという(かた)が、(つち)をこねてわたしの()()り、『シロアムに()って(あら)いなさい』と()われました。そこで、()って(あら)ったら、()えるようになったのです。」 12人々(ひとびと)が「その(ひと)はどこにいるのか」と()うと、(かれ)は「()りません」と()った。

ファリサイ()人々(ひとびと)事情(じじょう)調(しら)べる
13人々(ひとびと)は、(まえ)盲人(もうじん)であった(ひと)をファリサイ()人々(ひとびと)のところへ()れて()った。

28そこで、(かれ)らはののしって()った。「お(まえ)はあの(もの)弟子(でし)だが、我々(われわれ)はモーセの弟子(でし)だ。 29我々(われわれ)は、(かみ)がモーセに(かた)られたことは()っているが、あの(もの)がどこから()たのかは()らない。」 30(かれ)(こた)えて()った。「あの(かた)がどこから()られたか、あなたがたがご(ぞん)じないとは、(じつ)不思議(ふしぎ)です。あの(かた)は、わたしの()()けてくださったのに。 31(かみ)罪人(つみびと)()うことはお()きにならないと、わたしたちは承知(しょうち)しています。しかし、(かみ)をあがめ、その御心(みこころ)(おこな)(ひと)()うことは、お()きになります。 32()まれつき()()えなかった(もの)()()けた(ひと)がいるということなど、これまで一度(いちど)()いたことかありません。 33あの(かた)(かみ)のもとから()られたのでなければ、(なに)もおできにならなかったはずです。」 34(かれ)らは、「お(まえ)(まった)(つみ)(なか)()まれたのに、我々(われわれ)(おし)えようというのか」と()(かえ)し、(かれ)(そと)()()した。

ファリサイ()人々(ひとびと)(つみ)
35イエスは(かれ)が外に()()されたことをお()きになった。そして(かれ)出会(であ)うと、「あなたは(ひと)()(しん)じるか」と()われた。 36(かれ)(こた)えて()った。「(しゅ)よ、その(かた)はどんな(ひと)ですか。その(かた)(しん)じたいのですが。」 37イエスは()われた。「あなたは、もうその(ひと)()ている。あなたと(はな)しているのが、その(ひと)だ。」 38(かれ)が、「(しゅ)よ、(しん)じます」と()って、ひざまずいた。

新共同訳聖書

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牧師コーナー/今週のメッセージ


flower bed
教会入口の小花壇

今週の福音書は「盲人が癒される、目が開かれる」奇跡が描かれています。ヨハネ福音書はユダヤ教からの批判や攻撃から教えを守り、信仰を励ますことが目的です。目が見えるようになる奇跡は、奇跡を受けた本人が「あの方」「預言者」「神のもとから来た」と言い、ついには「主よ」と告白するに至ります。迫害を通してイエスと出会うのだとヨハネ福音書は1世紀末の教会の置かれた状況と重なります。ヨハネ福音書は信じる者たちを励ましているのでしょう。奇跡それ自体だけに目を向けるのではなく、人々と関わり続けようとするイエスに目を向けて歩み、イースターを迎えたいものです。

今年の聖マーガレット教会の大斎テーマは「宣教の原点に立とう」です。毎主日1時15分から大斎プログラムが組まれています。4月12日まで、毎週土曜日に「十字架の道行」が行われています。是非ご参加ください。

牧師 司祭 バルナバ 前田(まえだ) 良彦(よしひこ)

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大斎プログラム4 「開かれる」

お話:高橋顕司祭(日本聖公会 東京教区 聖三一教会・聖十字教会牧師)


Rev. Ken Takahashi
高橋顕司祭(聖三一教会・聖十字教会牧師)

本日の大斎プログラムは交換説教で聖マーガレット教会を訪問された、高橋顕司祭によるお話「開かれる」で、 大斎節のテーマである「宣教の原点」として「開かれる」ことの大切さを学びました。

高橋司祭のお話
私たちの教会での日頃の働きを見ていると、教会の中のことばかり考えて、近隣のことにはあまり意識が及んでいません。関わりもありません。近隣は教会とは別世界のようです。
かつて、司牧したある教会で、それまで恒例だったクリスマスコンサートを開けなくなってしまったことがありました。そこで、青年有志とクリスマスにゴスペルの集いを企画したところ、教会員の方たちも、賛同して当日いらっしゃる方のために、クッキー作りなどを引き受けてくれました。皆で手分けをして、近隣にもお知らせしました。当日は、驚いたことに170名もの方が参加され、大イベントになりました。教会員よりも多い、100人以上の近隣の方が出席してくださいました。
さらに驚いたことに、翌年のバザーにも、品物が足りないくらい、大勢の人が来場してくれました。一度訪れた教会は、敷居がとても低くなるのです。
「私たちの教会のやり方があるから」、「いつものやり方があるから」と、内に閉じていると外にも閉じてしまうことになります。 教会がまず「何かやってみようよ、ゴスペルの集いをやってみようよ、近隣の方も招いてやってみようよ」と内にまず開かれた時、外にも開かれたのです。
阿佐ヶ谷の聖ペテロ教会でも同じような体験をしました。 阿佐ヶ谷にはジャズストリートという催しがあります。期間中、街中がジャズの響きに包まれます。私が聖ペテロ教会を司牧していたころ、不思議なご縁で、教会をジャズストリートのパブリック会場に使わせて欲しいと頼まれました。教会委員会に提案すると、「礼拝をお献げする大切な教会をこのような目的に使って良いのか」とか、さまざまな問題を心配する声もありましたが、「地域のためにお貸ししましょう」ということで了解が得られました。教会を地域に開放することになると、教会員の方も様々なアイデアを出して、出演者の便宜をはかり、イベントに協力してくれました。私も、ジャズストリートの実行委員となり、副委員長を4年ほど努めました。
ある日、ふと立ち止まった、駅前交番の地域案内地図の電光表示の中に聖ペテロ教会が加えられていることに気がつきました。依頼した覚えもなく、地域の主要施設の案内に限られた公共の案内板に、聖ペテロ教会が表示されていることを不思議に思い、交番の警官に尋ねると、「ジャズストリート期間中、教会への、道を尋ねてくる人があまりに多いので地図に加えた」とのことでした。 教会が開かれると地域を巻き込むのです。内に開かれた教会は、外にも開かれるのです。外に閉ざされた教会は、内にも閉ざされているのです。
内に閉じていた旧約の世界を、イエスさまが内側を開き、旧約の壁を開いたから、その教えは世界に開かれたのです。 聖書の4つの箇所から「開かれる」を学んでみましょう。

?マタイによる福音書3章13-17節:イエスさまが洗礼を受ける場面で、16節に「そのとき、天がイエスに向かって開いた」と書かれています。
イエスさまの本格的なお働きは、30代のたった3年間ほどの活動でした。それが世界の宗教となったのです。その初めに、イエスさまは洗礼者ヨヘネから洗礼を受けます。ご自身が救い主であるにも関わらず、救い主を待ち望む人々と一緒に洗礼を受けたのです。その時、天が開かれたと記されています。神さまが、神さまの方から、開かれたのです。救いの世界にさあ来なさいと。だから、私たちも神さまに門を開き、共に歩むことが求められているのです。
?ルカによる福音書11章5-13節:真夜中に友達の家にパンを借りに行く人のたとえ話が書かれています。
ルカによる福音書では、この前の、11章1~4節でイエスさまが弟子たちの求めに応じて祈りを教えます。それは今日まで引き継がれ、私たちが大切にしている「主の祈り」です。しかし、単に機械的に「主の祈り」を祈るだけではいけないと思われたのでしょう、続いてこの5-13節にあるたとえを語られています。ここには、しつように頼めば必要なものが与えられると書かれています。この「しつよう」は原文にしたがえば、「恥も外聞もなく」ということです。神様に執拗に頼むこと、それほど強く神さまに心を開くことが大切だと、イエスさまは教えています。
?ルカによる福音書19章1-10節:徴税人ザアカイの話
当時、ローマに支配されていたユダヤでは、ローマに税金を収めていましたが、その税金をローマに代わって取り立てるのは、同じユダヤ人である、徴税人と呼ばれる人たちでした。彼らは、人々から、本来の税金より、高額の税を取立て、差額を自分たちの収入にしていました。徴税人は、ローマの代行者として、ユダヤの人々からは汚れた仕事とみなされていましたし、その税の取立ての厳しさもあって、大変に嫌われていました。金銭的には富んでいましたが、皆から軽蔑され、いつも仲間はずれでした。
この物語に登場するザアカイは、徴税人の頭でしたから、大変な金持ちだったでしょう。しかし、皆から嫌われいつも孤独でした。そんなザアカイが住む、エリコの町にイエスさまがやってきます。ザアカイは噂で聞いた救い主のイエスさまにお会いしたいと思います。自分の孤独が癒されるかもしれない、せめて一目イエスさまを見たいと思ったのでしょう。しかし、背の低いザアカイには群衆に囲まれたイエスさまを、見ることができません。そこで、通りを先回りして、いちじく桑の木に上ります。
すると信じられないことが起こります。イエスさまが上を見上げて、「ザアカイ、急いで降りて来ないさ。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。みなが驚く中、イエスさまは、この嫌われ者のザカイの家を訪ねます。この日、ザアカイは自分の内に開きます。自分のあるがままの姿に開いたのです。そして改心し、財産を貧しい人々に施し、二度と不正をしないと約束します。イエスさまは「今日この家に救いが来た」と言われます。この家とは、ザアカイが、生き住んでいる生活の場です。そこに救いが来たとイエスさまは言われるのです。これほどうれしいことは無かったと思います。ザアカイは自分に開いたのです。「どうせ自分は徴税人だ」と思って閉ざしていた心を内側に開いたのです。その時、自らの生活の場に福音が訪れたのです。
?使途言行録2章1-13節:聖霊が降る話
ペンテコステの聖霊降臨の場面です。弟子たちの上に、聖霊が下ったのです。聖霊に満たされて、他の国々の言葉で、霊が語らせるままに話し出します。この時、イエスさまの教えはユダヤを超えて世界中の人々に開かれます。外に開いたのです。
宣教の原点に「開く」ことがあります。神さまがまず自ら開いて、招いてくださったのです。だから、私たちも自分たちの内にある門を開き、神さまの招きに応え、そして外に向かって開いていくのです。

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