復活前主日 2014年4月13日(日)

 

前週 | 聖書日課 | 今週の牧師メッセージ
大斎プログラム6 「十字架の道行と黙想」 | 「十字架の道行」とは | 次週

マタイによる福音書 27:1-66


ピラトに()(わた)される
1()()けると、祭司長(さいしちょう)たちと(たみ)長老(ちょうろう)たち一同(いちどう)は、イエスを(ころ)そうと相談(そうだん)した。 2そして、イエスを(しば)って()いて()き、総督(そうとく)ピラトに(わた)した。

ユダ、自殺(じさつ)する
3そのころ、イエスを裏切(うらぎ)ったユダは、イエスに有罪(ゆうざい)判決(はんけつ)(くだ)ったのを()って後悔(こうかい)し、銀貨(ぎんか)三十(まい)祭司長(さいしちょう)たちや長老(ちょうろう)たちに(かえ)そうとして、4「わたしは(つみ)のない(ひと)()()(わた)し、(つみ)(おか)しました」と()った。しかし(かれ)らは、「我々(われわれ)()ったことではない。お(まえ)問題(もんだい)だ」と()った。 5そこで、ユダは銀貨(ぎんか)神殿(しんでん)()()んで()()り、(くび)をつって()んだ。 6祭司長(さいしちょう)たちは銀貨(ぎんか)(ひろ)()げて、「これは()代金(だいきん)だから、神殿(しんでん)収入(しゅうにゅう)にするわけにはいかない」と()い、7相談(そうだん)のうえ、その(かね)で「陶器(とうき)職人(しょくにん)(はたけ)」を()い、外国人(がいこくじん)墓地(ぼち)にすることにした。 8このため、この(はたけ)今日(こんにち)まで「()(はたけ)」と()われている。 9こうして、預言者(よげんしゃ)エレミヤを(とお)して()われていたことが実現(じつげん)した。「(かれ)らは銀貨(ぎんか)三十(まい)()った。それは、値踏(ねぶ)みされた(もの)、すなわち、イスラエルの子らが値踏(ねぶ)みした(もの)(あたい)である。 10(しゅ)がわたしにお(めい)じになったように、(かれ)らはこの(かね)陶器(とうき)職人(しょくにん)(はたけ)()()った。」

ピラトから尋問(じんもん)される
11さて、イエスは総督(そうとく)(まえ)()たれた。 総督(そうとく)がイエスに、「お(まえ)がユダヤ(じん)(おう)なのか」と尋問(じんもん)すると、イエスは、「それは、あなたが()っていることです」と()われた。 12祭司長(さいしちょう)たちや長老(ちょうろう)たちから(うった)えられている(あいだ)、これには(なに)もお(こた)えにならなかった。 13するとピラトは、「あのようにお(まえ)不利(ふり)証言(しょうげん)をしているのに、()こえないのか」と()った。 14それでも、どんな(うった)えにもお(こた)えにならなかったので、総督(そうとく)非常(ひじょう)不思議(ふしぎ)(おも)った。

福音書の朗読
本日の聖書日課、マタイによる福音書のご受難の箇所を朗読劇風に配役をきめて朗読しました。会衆が、「十字架につけろ」と叫ぶ場面では、全員が声を上げなくてはなりません。

死刑(しけい)判決(はんけつ)()ける
15ところで、(まつ)りの(たび)ごとに、総督(そうとく)民衆(みんしゅう)希望(きぼう)する囚人(しゅうじん)一人(ひとり)釈放(しゃくほう)することにしていた。 16そのころ、バラバ・イエスという評判(ひょうばん)囚人(しゅうじん)がいた。 17ピラトは、人々(ひとびと)(あつ)まって()たときに()った。「どちらを釈放(しゃくほう)してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」 18人々(ひとびと)がイエスを()(わた)したのは、ねたみのためだと()かっていたからである。 19一方(いっぽう)、ピラトが裁判(さいばん)(せき)()いているときに、(つま)から伝言(でんごん)があった。「あの(ただ)しい(ひと)関係(かんけい)しないでください。その(ひと)のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」 20しかし、祭司長(さいしちょう)たちや長老(ちょうろう)たちは、バラバを釈放(しゃくほう)して、イエスを死刑(しけい)(しょ)してもらうようにと群衆(ぐんしゅう)説得(せっとく)した。 21そこで、総督(そうとく)が、「二人(ふたり)のうち、どちらを釈放(しゃくほう)してほしいのか」と()うと、人々(ひとびと)は、「バラバを」と()った。 22ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの(ほう)は、どうしたらよいか」と()うと、(みな)は、「十字架(じゅうじか)につけろ」と()った。 23ピラトは、「いったいどんな悪事(あくじ)(はたら)いたというのか」と()ったが、群衆(ぐんしゅう)はますます(はげ)しく、「十字架(じゅうじか)につけろ」と(さけ)(つづ)けた。 24ピラトは、それ以上(いじょう)()っても無駄(むだ)なばかりか、かえって騒動(そうどう)()こりそうなのを()て、(みず)()って()させ、群衆(ぐんしゅう)(まえ)()(あら)って()った。 「この(ひと)()について、わたしには責任(せきにん)がない。お(まえ)たちの問題(もんだい)だ。」 25(たみ)はこぞって(こた)えた。「その()責任(せきにん)は、我々(われわれ)子孫(しそん)にある。」 26そこで、ピラトはバラバを釈放(しゃくほう)し、イエスを鞭打(むちう)ってから、十字架(じゅうじか)につけるために()(わた)した。

兵士(へいし)から侮辱(ぶじょく)される
  27それから、総督(そうとく)兵士(へいし)たちは、イエスを総督(そうとく)官邸(かんてい)()れて()き、部隊(ぶたい)全員(ぜんいん)をイエスの(まわ)りに(あつ)めた。 28そして、イエスの()ている(もの)をはぎ()り、(あか)外套(がいとう)()せ、29(いばら)(かんむり)()んで(あたま)()せ、また、右手(みぎて)(あし)(ぼう)()たせて、その(まえ)にひざまずき、「ユダヤ(じん)(おう)万歳(ばんざい)」と()って、侮辱(ぶじょく)した。 30また、唾を吐きかけ、葦の棒を()()げて頭をたたき(つづ)けた。 31このようにイエスを侮辱(ぶじょく)したあげく、外套(がいとう)()がせて(もと)(ふく)()せ、十字架(じゅうじか)につけるために()いて()った。

十字架(じゅうじか)につけられる
32兵士(へいし)たちは()()くと、シモンという名前(なまえ)のキレネ(じん)出会(であ)ったので、イエスの十字架(じゅうじか)無理(むり)(かつ)がせた。 33そして、ゴルゴタという(ところ)、すなわち「されこうべの場所(ばしょ)」に()くと、34(にが)いものを()ぜたぶどう(しゅ)()ませようとしたが、イエスはなめただけで、()もうとされなかった。 35(かれ)らはイエスを十字架(じゅうじか)につけると、くじを()いてその(ふく)()け合い、36そこに(すわ)って見張(みは)りをしていた。 37イエスの(あたま)(うえ)には、「これはユダヤ(じん)(おう)イエスである」と()いた罪状(ざいじょう)()きを掲げた。 38(おり)から、イエスと一緒(いっしょ)二人(ふたり)強盗(ごうとう)が、一人(ひとり)(みぎ)にもう一人(ひとり)(ひだり)に、十字架(じゅうじか)につけられていた。 39そこを(とお)りかかった人々(ひとびと)は、(あたま)()りながらイエスをののしって、40()った。「神殿(しんでん)()(たお)し、三日(みっか)()てる(もの)(かみ)()なら、自分(じぶん)(すく)ってみろ。そして十字架(じゅうじか)から()りて()い。」 41(おな)じように、祭司長(さいしちょう)たちも律法(りっぽう)学者(がくしゃ)たちや長老(ちょうろう)たちと一緒(いっしょ)に、イエスを侮辱(ぶじょく)して()った。 42他人(たにん)(すく)ったのに、自分(じぶん)(すく)えない。イスラエルの(おう)だ。 (いま)すぐ十字架(じゅうじか)から()りるがいい。そうすれば、(しん)じてやろう。 43(かみ)(たよ)っているが、(かみ)御心(みこころ)ならば、(いま)すぐ(すく)ってもらえ。『わたしは(かみ)()だ』と()っていたのだから。」 44一緒(いっしょ)十字架(じゅうじか)につけられた強盗(ごうとう)たちも、(おな)じようにイエスをののしった。

イエスの()
45さて、(ひる)の十二()に、全地(ぜんち)(くら)くなり、それが三()まで(つづ)いた。 46()ごろ、イエスは大声(おおごえ)(さけ)ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが(かみ)、わが(かみ)、なぜわたしをお見捨(みす)てになったのですか」という意味(いみ)である。 47そこに居合(いあ)わせた人々(ひとびと)のうちには、これを()いて、「この(ひと)はエリヤを()んでいる」と()(もの)もいた。 48そのうちの一人(ひとり)が、すぐに(はし)()り、海綿(かいめん)()って()いぶどう(しゅ)(ふく)ませ、(あし)(ぼう)()けて、イエスに()ませようとした。 49ほかの人々(ひとびと)は、「()て、エリヤが(かれ)(すく)いに()るかどうか、()ていよう」と()った。 50しかし、イエスは(ふたた)大声(おおごえ)(さけ)び、(いき)()()られた。 51そのとき、神殿(しんでん)()(まく)(うえ)から(した)まで()(ぷた)つに()け、地震(じしん)()こり、(いわ)()け、52(はか)(ひら)いて、(ねむ)りについていた(おお)くの(せい)なる(もの)たちの(からだ)()(かえ)った。 53そして、イエスの復活(ふっかつ)(あと)(はか)から()()て、(せい)なる(みやこ)(はい)り、(おお)くの人々(ひとびと)(あらわ)れた。 54百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)一緒(いっしょ)にイエスの見張(みは)りをしていた(ひと)たちは、地震(じしん)やいろいろの出来事(できごと)()て、非常(ひじょう)(おそ)れ、「本当(ほんとう)に、この(ひと)(かみ)()だった」と()った。 55またそこでは、大勢(おおぜい)婦人(ふじん)たちが(とお)くから見守(みまも)っていた。この婦人(ふじん)たちは、ガリラヤからイエスに(したが)って()世話(せわ)をしていた人々(ひとびと)である。 56その(なか)には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの(はは)マリア、ゼベダイの()らの(はは)がいた。

(はか)(ほうむ)られる
57夕方になると、アリマタヤ出身(しゅっしん)金持(かねも)ちでヨセフという(ひと)()た。この(ひと)もイエスの弟子(でし)であった。 58この(ひと)がピラトのところに()って、イエスの遺体(いたい)(わた)してくれるようにと(ねが)()た。そこでピラトは、(わた)すようにと(めい)じた。 59ヨセフはイエスの遺体(いたい)()()ると、きれいな亜麻(あま)(ぬの)(つつ)み、60(いわ)()った自分(じぶん)(あたら)しい(はか)(なか)(おさ)め、(はか)()(ぐち)には(おお)きな(いし)(ころ)がしておいて()()った。 61マグダラのマリアともう一人(ひとり)のマリアとはそこに(のこ)り、(はか)(ほう)()いて(すわ)っていた。

番兵(ばんぺい)(はか)見張(みは)
62()くる()、すなわち、準備(じゅんび)()翌日(よくじつ)祭司長(さいしちょう)たちとファリサイ()人々(ひとびと)は、ピラトのところに(あつ)まって、63こう()った。「閣下(かっか)(ひと)(まど)わすあの(もの)がまだ()きていたとき、「自分(じぶん)三日後(みっかご)復活(ふっかつ)する」と()っていたのを、わたしたちは(おも)()しました。 64ですから、三日目(みっかめ)まで(はか)見張(みは)るように命令(めいれい)してください。そうでないと、弟子(でし)たちが()死体(したい)(ぬす)()し、『イエスは死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)した』などと民衆(みんしゅう)()いふらすかもしれません。そうなると、人々(ひとびと)(まえ)よりもひどく(まど)わされることになります。」 65ピラトは()った。「あなたたちには、番兵(ばんぺい)がいるはずだ。 ()って、しっかりと見張(みは)らせるがよい。」 66そこで、(かれ)らは()って(はか)(いし)封印(ふういん)をし、番兵(ばんぺい)をおいた。

新共同訳聖書

このページの先頭に


牧師コーナー/今週のメッセージ


棕櫚を掲げて入堂
棕櫚の主日。棕櫚の枝を先頭に、フルートとギターの伴奏で聖歌を歌いながら、2階の聖堂に皆で列をつくって入堂しました。。

今週の福音書は朗読劇スタイルで行いました。会衆の皆さんは「十字架につけろ!」と叫ばなくてはなりません。心に葛藤を覚えるかも知れません。イエス様の十字架の出来事が福音書に記されていますが、真正面から聞きたいと思います。イエスさまの十字架と復活が今週の大きな主題です。聖なる三日間の礼拝も大事な礼拝です。人生の中で参加してみたいプログラムのはずです。

棕櫚の十字架
前週に婦人たちが作った棕櫚の十字架を、聖餐式で、司祭が一人ひとりに配りました。

復活前主日は棕櫚(枝)の日曜日と呼ばれます。イエスさまのエルサレム入城に際して、人々がヤシの葉を道に敷いて歓迎したことをちなんでいます。それから数日で、同じ人々がイエスを「十字架につけろ」と叫ぶのです。礼拝最初に棕櫚を掲げたアッシャーを先頭に、行列をして礼拝堂に入ります。礼拝の中で、棕櫚で作った十字架を皆さんに手渡しました。

例年、聖アンデレ教会で教区受苦日礼拝が捧げられていますが、「聖マーガレット教会で受苦日を過ごしたい」との声がありましたので、正午から約1時間受苦日礼拝を行いますので、ご参加ください。
17日(木)午後7時 洗足式
19日(土)午後6時 イースター・ビジル

牧師 司祭 バルナバ 前田(まえだ) 良彦(よしひこ)

このページの先頭に


大斎プログラム6 ?青年たちによる「十字架の道行と黙想」


司祭の両脇にトーチを持った少年と青年が立って十字架の道行の開始。
トーチを掲げて、十字架の道行の開始

本日の大斎プログラムは青年、少年たちによる「十字架の道行と黙想」。「『十字架の道行』とは」参照
「黙想と祈りの集い」*のメンバーも参加してくれて、教会の青年たちと一緒になって、プログラムを豊かなものにしてくれました。
聖マーガレット教会の十字架の道行は「ラルシュ・かなの家」**メンバーの若本政一さんが描かれた板絵を用いて行われます。
道行の式文は、「黙想と祈りの集い」準備会で編集した、ルネ・ヴォアイオーム***作、沢田和夫神父訳のテキストを使いました。
各留(ご受難の道行の各場面)の前で、参加者が交代でテキストを朗読し、しばらく全員で黙想します。
その後、短い歌を繰り返し歌って、次の留に進みます。
雰囲気をお伝えするために、いくつかの留を抜粋してみました。


十字架のもとに、今、わたしたちは集まっています。
この十字架の上で、主イエスよ、あなたは死なれるのです。
わたしたちは遠くから眺めてたたずむのです。
信仰が深くなればなるほど、
愛が深くなればなるほど、
十字架上のあなたに近くなるのです。
わたしの信仰を深めてください。
わたしの貧しい愛、弱い愛を強めて下さい。
主イエスよ
今、わたしは自分のありのままを、あなたに差し出します。
その弱さを、痛みを、傷を、孤独を、醜さを差し出します。
主イエスよ
今日、わたしたちがあなたの十字架を見つめ、
それによって清められ、励まされ、
希望のうちに、新しいいのちにあずかることができますように。

テキスト:「黙想と祈りの集い」準備会編集、ルネ・ヴォアイオーム***作、沢田和夫神父訳(以下同じ)

黙想
黙想後、次の歌を歌いながら第1留の前へ

詞・曲 塩田 泉

楽譜:キリストの平和が、わたしたちの心の隅々にまで、

キリストの平和が、わたしたちの心の隅々にまで、ゆきわたりますように(コロサイ3:15,16)


第1留の板絵の写真
第1留:主イエス、死刑の宣告を受けられる

第1留 主イエス、死刑の宣告を受けられる
主イエスは法廷に立たされている。主イエスはいばらの冠をかぶり、真紅(しんく)のマントを着せられている。
ピラトはユダヤの人々に言った、「見よ、この人を」。
彼らは、主イエスを見ると大声で叫んだ、「十字架につけよ」。
救い主イエスよ、あなたは言われました。「わたしは神の子である」と。このことばのために死の宣告を受けられたのです。
人間が望む価値とあなたの愛の価値とが、激しく衝突したのです。一方では人間の傲慢(ごうまん)、国家主義、群衆の卑怯(ひきょう)なエゴイズム。
他方において、父なる神への絶対的な忠実、御子としての自らへの全き忠実。限りない愛。この両方が衝突したとき、あなたは裁かれざるを得なかったのです。そして死刑に宣告されたのです。
今の世の中の、さまざまな利己主義、国家主義、他人をかえりみないほどのモノヘの執着。 不道徳。これらのいざないを前にして、主イエスよ、どうかわたしに、死をもあえて辞さない、 真実への忠誠をお授け下さい。わたしの内に宿っておられるあなたの似姿を傷つけないで 保つことができますように。


黙想
黙想後、次の歌を歌いながら第2留へ

詞・曲 市原 信太郎

楽譜:わたしはなりたい キリストを生きる人

わたしはなりたい キリストを生きる人に わたしはなりたい キリストを生きる人
(ローマ14:8,コリント5:5,フィリピ1:21)


第2留~第9留は略させていただきます。

第10留の板絵の写真
第10留:主イエス、み衣をはがされる

第10留 主イエス、み衣をはがされる
主イエスは、丘の高い所に立たれた。
群衆は彼を見上げている。
そして主イエスの衣服ははぎ取られた。
主イエス、わたしたちがあなたに出会おうと出かけてゆくときに、その道で出会うのは いつも同じもの。それは屈辱であり、はずかしめであり、いつもそれに対して反抗し、避けたく なるものなのです。
主イエス、あなたについてゆくためには、何でも引き受けるつもりでした。すべてを承諾する つもりでした。ただこれだけを除いては‥‥。そしてこの「ただこれだけを除いては」と思って いたそれを、まさに引き受けるようにとあなたは招かれるのです。
わたしたちはしばしば犠牲や勇気とか、自己を捧げることを夢見ます。わたしたちが英雄的な 死のすばらしさを夢見るとき、それに対して主イエスよ、あなたはわたしたちに悲惨、軽蔑、 恥をお告げになるのです。すべてをもぎとられ、裸にされて、内心の切り裂かれる痛みへと わたしたちを招いておられるのです。
この道を歩むことなしには、真の自由と喜びはないと、あなたのまなざしが語っています。


黙想
黙想後、次の歌を歌いながら第11留へ

Music: J.Berthier

楽譜:いつくしみと愛の・・・

いつくしみと愛のあるところ、神ともに(ヨハネ12:24)
?Ateliers et Presses de Taize, 71250 Taize Community


第11留 主イエス、十字架に釘付けられる
彼らは、主イエスの両手をさし貫き、釘を十字架に打ちこんだ。そして、両足を十字架に 釘付けにした。
すべてが何の力にもならない時が来る。名誉も、才能も、財産も、友情も。

第11留の板絵の写真
第11留「主イエス、十字架に釘付けられる」の板絵

わたしに死が近ずき、医師はもはや何もなしえぬことを告げたとき、このようになる。そのとき、 わたしは死の床に釘付けられたままでいる。
しかし、そのときわたしは初めて、わたしが何であるかを、すなわち全くの無にすぎないことを 悟るのです。そして、何が人間にとって最高のものであるかに気づくのです。
 主イエス、あなたに向ける信頼のまなざし、
 これこそ人間にとって最高のもの、
 永遠のいのちの明るいきざし。
主イエスよ、わたしは今、十字架上のあなたにわたしの限りない信頼をおささげします。


黙想
黙想後、次の歌を歌いながら第12留へ

詞・曲 市原 信太郎

楽譜:わたしはなりたい キリストを生きる人

わたしはなりたい キリストを生きる人に わたしはなりたい キリストを生きる人
(ローマ14:8,コリント5:5,フィリピ1:21)


第12留の板絵の写真
第12留「主イエス、十字架の上に死なれる」の板絵

第12留 主イエス、十字架の上に死なれる
主イエス、あなた御自身の最後のことばを通して、わたしたちはあなたの御心の神秘に 踏み入るのです。
「父よ、かれらをお赦しください。かれらは何をしているのか知らないのですから」
「婦人よ、これはあなたの子」「これはあなたの母」
「まことにわたしは言う。きょうあなたはわたしと共に天国にいる」
「神よ、我が神よ、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか」
「わたしは、渇く」
「すべてはなしとげられた」
「父よ、御手にわたしの魂をゆだねます」
主イエスよ、愛によって苦しむこと、それのみが、いかなる哲学、いかなる権力、地上の いかなる財宝も与え得ない永遠の愛を獲得させるものであることを、深く悟らせてください。


黙想
黙想後、次の歌を歌いながら第13留へ

曲 依田浩志

楽譜:一粒の麦が落ちて死ねば・・・

一粒の麦が落ちて死ねば、多くの実を結ぶ 命の実を結ぶ(ヨハネ12:24)


第13留の板絵の写真
第13留「主イエス、十字架より降ろされる」の板絵

第13留 主イエス、十字架より降ろされる
彼らは主イエスを十字架から降ろした。 聖母マリアの膝に体は横たえられ、そのとき彼女は自分の息子の言ったことを思い出した。
 「これはわたしの体、あなたのために砕かれたわたしの体」
 「これはわたしの血、あなたのために流されたわたしの血」
すべては終わった。弟子たちは消えていった。今、みんなが小声で話していることは、 埋葬のこと、お墓のこと。しかし、聖母マリアよ、あなたの魂の中には、すでに希望の炎が 静かに燃え上がろうとしているのです。
わたしたちの人生の中で、不条理で理解しがたいことを体験するとき、すべてが終わったと 思われるとき、主イエスが死んでおしまいになったと感じるとき、聖母マリアよ、あなたが お持ちになったような希望の力をお与えください。その時こそ、本当の、もう亡びることの ない、決定的ないのちのほとばしりが間近かに迫っている時なのですから。
主イエスよ、わたしたちは、力の限りをつくしてこのお恵みをお願いいたします。信仰の うちに希望し続けるお恵みを。


黙想
黙想後、次の歌を歌いながら第14留へ

曲 YONEKO

楽譜:かみへのいけにえは・・・

神へのいけにえは くだかれたその魂 くだかれた悔いた心を 主は喜ばれる(詩篇51:17)


第14留の板絵の写真
第14留「主イエス、墓に葬られる」の板絵

第14留 主イエス、墓に葬られる
太陽が沈み始めた。 彼らは麻で主イエスの体をおおい、園にある墓におさめた。 もう事件は完全に終わった。人間の考えでは、この出来事は過去のものになった。 しかし、主イエスよ、死と絶望、失敗や悲しみの中にあっても、わたしはあなたの 注がれる希望を信じます。 わたしもあなたと同じ道を進もうと思います。自らの十字架を受諾し、傲慢(ごうまん)な 自己と対決する苦しみの道をわたしも進もうと今、決意します。あなたへの愛と信頼を もって、あなたの後についてゆきたいのです。 あなたの体である教会が闇の力に包まれそうに思えるときがあります。墓の沈黙が、 悪の勝ち誇る声が教会を押し倒そうに思えるときがあります。そういうときにも、 主イエスよ、どうかあらゆる試練の中で、あなたの教会への忠誠を、あなたの教会に 対する不動の信頼をお与えください。すべてが癒(いや)され、すべてが赦され、あらゆる 痛みや孤独、涙や罪深さから解放される夜明けがくることを信じています。 わたしたちは魂の底から、そう信じています。


黙想
黙想後、次の歌を歌いながら会衆席へ

詞・曲 塩田 泉

楽譜:キリストの平和が、わたしたちの心の隅々にまで、

キリストの平和が、わたしたちの心の隅々にまで、ゆきわたりますように(コロサイ3:15,16)


十字架の道行を支えてくれた伴奏のギターとフルート
十字架の道行を終えて、ギターとフルートの伴奏に皆の歌がとけあって、静かに聖堂を、そして私たちの心を包みます。

*「黙想と祈りの集い」
フランスの「テゼ共同体」(キリスト教の教派をこえたコミュニティー)に連帯して日本で行われている祈りの集い。

**ラルシュ・かなの家
静岡市にある知的ハンディを持つ人と支える人のコミュニティーで、ジャン・バニエが創立したラルシュ・コミュニティー連盟に所属している。家庭的な人間らしい生活を大切にし、私たちがともに生きることの素晴らしさを分かち合ってくれます。

***ルネ・ヴォアイオーム神父( 1905-2003)
フランスのカトリック神父。シャール・ド・フーゴ司祭(1858-1916)の遺志を継ぎ、1933年サハラ砂漠で 「イエスの小さい兄弟会」を創立。その活動は世界に広がりました。


このページの先頭に

「十字架の道行」とは


キリスト教の初期から、聖地エルサレム巡礼を行ったキリスト者達によって、主イエスの足跡をたどり、自らの信仰を強めるために、始められたものです。 イエスが死刑の宣告を受けられた、ローマ軍の総督ポンテオ・ピラトの宮殿から、十字架を負って歩かれたとされる刑場までの道を辿り、聖書や伝承によって伝わる要所に立ち留まり、イエスの苦難を思って祈り、黙想し、自らの罪を悔いたりしました。これが十字架の道行と呼ばれるようになりました。
しかし、バレスチナの地がイスラム教徒のものになると、エルサレム巡礼は困難なものとなりましたし、もともと誰でも行ける地ではありませんでした。
そこで、自分たちの国の修道院や教会に、かつての聖地での十字架の道行の各ポイントにふさわしい彫刻や絵を据え、その一つ一つの場面を辿ることが、行われるようになり、次第にキリスト教徒の間で、新しい「十字架の道行」として普及していきました。
中世の頃から、この道行には14の彫刻か、絵が飾られるようになり、それらは、「留(りゅう)=station」と呼ばれて、現在に至っています。
今日では、主の復活を示す15留が設けられることが多くなり、聖マーガレット教会の十字架の道行の板絵も、第15留まで描かれています。

このページの先頭に