バレンタインとカーニバルと

主教 植田仁太郎

 二月の二つの日は、本来は聖なる人や行いを憶える日であるのに、これほど俗なるものに転化してしまうのは、人の世の常というべきか、堕落というべきか―そんなことに憤ってもしょうがないのでしょう。

 聖バレンタインという聖人は、ローマ時代の殉教者で、この死を賭して信仰を全うした方は、如何なる意味でも、恋愛や恋人たちのパトロンとされる経歴やエピソードとは全く無縁だそうです。いつ頃からか、そういう俗説と結びつけられ、カード業者や食品業者の商売に大々的に利用されるようになったそうです。幸か不幸か、イギリスには聖バレンタインを記念して名付けられた教会はひとつもないそうです。私は、それは「幸」だと思います。もし、そういう名前の教会があったら、俗信に散々利用されてしまうでしょう。

 もうひとつ、カーニバルは、伝統的なキリスト教圏では、大なり小なり祝われますが、これも、本来は、四十日間にわたる、禁欲と節制をとうしてみずからの信仰を見つめ直す季節の前日のことです。禁欲と節制を肉を食べないことで表わしてきましたので、その前の最後に肉を食べてよい日、という程度の日でした。それが、仮装行列や踊りあかす機会となり、おおっぴらにドンチャン騒ぎが公認される日のようになってしまいました。

 およそ信仰者が「聖」として尊び大切にする行いや生き方、あるいは信仰者でなくても、真実なものとして大切にされる行いや生き方は、世の中の祭りとは正反対の、目立たない、ひそやかな、そしてずっと積み重ねられてゆくような、在り方であることを忘れてはならないでしょう。そういう在り方にこそ、眼を向けるようにしたいものです。