クリスマスの前に

主教 植田仁太郎

 教会の十二月といえば、クリスマスとその準備と相場が決まっているようです。クリスマス(イエス・キリストの誕生)を祝うのも、イエス・キリストの復活を祝う復活祭も、一年間をとおして教会のカレンダーがあり、そのカレンダーを、日々守る中で、そういう大きなお祭りの日を迎えることになります。クリスマス前の四週間は、私たち人類にとって決定的な存在となった方、すなわちイエス・キリストの到来を「待つ」という大切な期間として、教会のカレンダーに定められています。
 
  現代という時代は、「待つ」という生活と人生の間合いが、どんどん無くなる時代のようです。人を待たせるのは失礼なことだし、なるべく待たずに電車に乗ったり、サービスを受けたりできることが良いこととされています。電話がかかってくるのを待つこともなくなり、ケータイがあればどこに居てもつながります。とりたてて「待つ」必要はなくなりました。

 ある哲学の先生はこう書いています。<「待たない社会」、そして「待てない社会」。意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性を私たちはいつか無くしたのだろうか。……時が満ちる、機が熟すのを待つ、それはもう私たちにはあたわぬことなのか……。>

 神の与える、私たちに決定的な意味を持つものが、必ず明らかになる、それを信じて「待つ」。そのことに習熟しようとするのが、クリスマス前の期間です。

「種も蒔かず、刈り入れもせず」

主教 植田仁太郎

 暑い夏と、それがいつまで続くのかと思われるような、九月・十月の日々が過ぎ、ようやく秋を感じる季節になったようです。
「実りの秋」とよく言われますが、稲刈りは、まだ残暑厳しい頃に、とっくに終わってしまうのが、この頃の農家のサイクルのようです。それでも、都会を離れると、柿が見事に色付いていて、ようやく秋を感じさせてくれます。
人間の労働と自然あるいは神の恵みが相まって、私たちに実りを得させてくれるようです。そういう自然を通しての神の恵みを語るのに、聖書は、「種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋や倉も持たない」カラスさえも、神は養って下さる、と表現しています。カラスという私たちが半分小馬鹿にしている、美しくも何ともない鳥にさえ、神は目をかけている、人間の生活に何の役にも立っているようには見えないカラスにさえ、神の恵みが与えられている。ましてや、カラスよりはるかに価値がある人間に、神が目をかけ、そのいのちを支えないはずがあろうか、という論法で、神の恵みのあまねく注がれていることを、伝えようとしています。
私たちは、ややもすると神の愛は、その神の愛を受けるにふさわしい(立派な?敬虔な?)人間に注がれると考えがちですが、このカラスへの神の愛のたとえは、まさに役立たずで何の生産もしていないように見えるいのちの営みにも、神は目をかけていますョという教えです。だから、クヨクヨせずに神さまに私たちの身を委ねなさい、と。

「開く・信じる・食べる」

主教 植田仁太郎

 毎年秋分の日の祝日の頃に、東京教区の諸教会の信徒が集まって、礼拝を一緒にし、教会やグループがお店を出し合って、楽しい一日を過ごします。教区フェスティバルと呼んでいます。
「開く・信じる・食べる」は、今年のフェスティバルに掲げられたテーマです。「開く」は心を開く、とびらを開くなど、私たちが内にこもらず、自分たちのことだけを考えず、私たちの生き方も教会の在り方も、外に開かれた状態を心がけましょうということでしょう。「信じる」は、そういう心をもって、みんなで、共同体として信仰を持ちましょう、ということでしょう。
さて、「食べる」は何を呼びかけているのでしょうか。実は、教会を中心にした生活、神さまと共に生きようとする生活と、「食べる」ことは大変密接な関係があります。神さまと共に日常を生きるということは、必ずしも、祈りや瞑想に満ちた敬虔な生活のことを言うのではありません。私たちの教会の礼拝の中心はミサあるいは聖餐式と言われる、聖なる食事、イエス・キリストのからだと血を「食する」行為なのです。
「食する」行為の中で、神さまの愛と恵みを実感し、そこに列する人々と共に生かされていることを確認します。「食する」行為は子どもも老人も、病気の人も障害のある人も、教育のある人も無い人も、――すべての人がいのちのある限り続ける行為でもあります。 「開く」「信じる」と同じくらい大切な行為が「食べる」ということでしょう。

海外へのボランティア

主教 植田仁太郎

 韓国の教会が派遣したボランティア二十三人が、アフガニスタンで、旧支配勢力であったタリバーンといわれるグループに拉致されてしまった。ようやく解放される見通しとなったようだ。韓国のキリスト教界では、この事件をめぐって様々な議論が沸き起こっているようだ。このボランティアの方々は、そして送り出した教会は、現地の医療や教育を助けようとする、善意の方々であることは疑いない。拉致する側の暴力的行為は決して許されるものではない。
 この事件の報道で分らない部分がある。それは、この教会なり、ボランティアの人々を現地で責任をもって受け入れてきた機関や組織はどれなのか――それが無かったようだ。この教会のグループは、医療や教育の援助活動ですでに数年の実績があるようだ。ある地域で、善意であれ、部外者が活動する場合には、その地域で、同じく善意で受け入れ協力してくれるパートナー組織が絶対必要である。
 東京教区から、エルサレム教区が受け入れて下さって十一人のボランティアが、九月の末まで、ヨルダンの盲・ろう者の施設で奉仕活動をすることになっている。中東の地に行くというだけで心配される方々もいらっしゃるようだ。
 現地の教会がしっかりと受け入れてくださるので、私は全然心配していない。ヨソ者である私たちを受け入れてくれるパートナーが居ることは本当にうれしいことである。

8月15日を迎える

主教 植田仁太郎

 60年前のあの日から、この日は特に平和を憶え平和を求める日となった。「終戦」でも「敗戦」でも、あの日をどう呼ぼうと、あの日は一つのことを悲痛にも全国民で悟った日であったはずだ。自分たちの国家がみずから決断して始めた破壊と殺戮と暴力は、他の国、他の民族の人々に対しては言うまでもなく、国家にそれを許し、結局みずからもその破壊と殺戮と暴力をこうむることになった日本の私たちにとっても、その理由や目的を全く正当化できるものではないと、悟った日である。そしてその悲痛な認識は、数年を経ずしていわゆる「平和憲法」として、わたしたちの思想的財産となって引き継がれることとなった。  二度の世界大戦を防ぎ得なかったキリスト教会とその神学の営みも、厳しい反省を迫られることになった。その反省は、私たちの信仰の表現をする時にも、なるべく「戦い」「滅ぼす」「兵士」「勝ち取る」などの戦争のイメージにつながる言葉や概念を用いないようにするという努力にも表れている。残念ながら、イスラエル民族の民族神話の性格を色濃く持つ旧約聖書は、「万軍の主」「滅ぼす」など戦争と殺戮是認の物語に満ち満ちている。そのことが、永い教会の歴史の中で、神のため、キリストのために「戦う」考えを良しとしてしまう間違いを、気付かせなかったのかも知れない。

全ては良かった -2-

主教 植田仁太郎

 先月のページの冒頭で、旧約聖書に記されているいにしえの信仰者の、神は全てを麗しく造られたのだという洞察の素晴らしさを述べた。そしてその麗しいはずの世界と人間がどうして現今のように狂ってしまったのだろうか、という問いを残しておいた。
 最近教区で、旧約聖書のこの部分をみんなで勉強する機会があった。上智大学の教授から、「全てが良かった」その「全て」を神が創造された際、人間を創造する時だけは、神はちょっと躊躇したことをうかがわせる表現が用いられていることを学んだ。宇宙と自然と動植物を、「光あれ!」「生き物を生み出せ!」と一気に命令形のことばで創造した神が、人間を創る際は、実に慎重だったというのだ。
 さらに神は、人間を神が意のままに操ることのできるロボットとして創造したのではなくて、自由意志を持った存在としてお創りになったという。神は人間を、神と対話しつつ世界を治めてくれる存在としてお創りになったのだ。
 ところが、その人間が、やがて神と対話することをしないまま、みずから勝手に世界を治めるようになったために、まさに「狂い」が生まれてきたのだ。
 その事態を、神ご自身のイニシャチブによって何とかしよう、となさっているのが、イエス・キリストの到来であると、私たちは信じている。再び神と対話のうちに生きてゆく道が回復されたのだ。

全ては良かった

主教 植田仁太郎

 これから梅雨の季節を迎えますが、ここ二,三週間の天候は素晴らしいものでした。時に暑い日もありましたが、風のさわやかさ、陽光の輝き、夜気の涼しさは、一年中こんなだったらいいのに、という気分にさせられました。大都市に暮らしていても、このように感じることができたのですから、自然に恵まれた土地で暮らしている人々は、一層その素晴らしさを感じておられるでしょう。特に、たまに眼にすることのできた、陽光のもとでの里山の風景は、多彩な緑と光の織りなす陰影のコントラストが、まさにまぶしいばかりでした。
 旧約聖書の冒頭で語られる、神の創造のわざを思い出します。六日間をかけて天と地と海、そしてそこに生きるものを創造された神は、完成されたすべてをご覧になって、「それは極めて良かった」と満足しました。その「すべて」には人間も含まれています。  宇宙も、自然も、環境も、そしてそこに暮らす人間も、本来調和のとれた、「極めて良いもの」つまり、大変麗わしいものだという、いにしえの信仰者の洞察がここに示されています。
 私たちキリスト者は、その洞察を継承しました。本来神のもとで大変麗しいものが、どこかで狂ってしまった、何が悪かったのか、どうすれば麗わしいものを回復できるのか――イエス・キリストのメッセージは、本来の自然の美しさを示しつつ、その回復の道筋を示していると思います。

聖書の不思議(ミステリー)・教会の不思議(ミステリー)

主教 植田仁太郎

 今年は、五月の最後の日曜日が「聖霊降臨日」と呼ばれる、教会にとって、大切なお祭りの日です。一般的に、この日が教会が誕生した日とされています。イエス・キリストの死からの復活を体験した人々に「聖霊」と言われる特別な力が与えられ、教会という共同体が形成されたと言います。
 史実は、ある一日にそのことが突如として起ったのではなく、確かに人々に不思議な力が与えられたでしょうけれども、何年かのうちに、各地で信徒のグループが次々に生まれていったのでしょう。そのあたりの歴史は、いくら調べても、まだ良くわかりません。イエス・キリストの十字架上の死ののち、百年も経ないうちに、ほぼ地中海世界全域に教会が生まれていたという事実は、本当に不思議です。聖霊の力と言う他ないのでしょう。
その各地に生まれた教会は、信仰の在り方やそれに基く倫理や、礼拝の仕方は、余り統一性が無くかなり多様でした。それを表す多様な文書が残されています。その多様な文書が約三百年かけて段々と分別され、現在「聖書」として一冊にまとめられたものと「そうでないもの」という二種類に判定されてしまいました。その過程も、本当に不思議です。一群の文書は「聖なる」「書」とされ、その他のものは、異端や偽典とされてしまいました。それ以降、教会は聖書の教え伝えるところをみずからの規範としてきています。聖書が生まれたのも、教会の生まれたのも、まさに数々のミステリーに包まれています。私たちは、それを聖霊の働きと呼んでいます。

復活節を迎える

主教 植田仁太郎

 四月という月は、人生の中で、何かしら新しい日々を迎えることになるという、期待に満ちた月です。新しい学校への入学、学校という社会から仕事の世界へと足を踏み入れる就職、そして逆に定年を迎えて、長年の仕事中心の生活から新しい日常を迎える――それぞれの人生の岐路を迎えての、新たな出発の時です。
 それは、自然が(北半球では)冬から春へと移り、新たな生命の動きが始まるサイクルに合致するものでもあります。教会はこの季節に復活日(祭)を迎えます。その日は、毎年少しずつずれますが、色々な文化の中で祝われる春の祭典と無関係ではないと思います。  十字架上の刑死から復活したイエス・キリストに最初に出会った人々は、そこに本当の意味での「神の子」を見たのでした。生前のイエスの、どんな崇高な教えも、どんな不思議な奇跡の業も、それがイエスの神たることを証明するものではありませんでした。死からの復活だけが、イエスが神であり人であったことの証しとなりました。
 そこから、いわゆるキリスト教という信仰体系が生まれ、教会という信仰共同体が生まれました。その復活の出来事を憶える復活日が、すべてのもののいのちが躍動する春の季節に定められているのは、まことにその意味にかなっているように思います。聖餐式(ミサ)のクライマックスで、いつも私達はこう宣言します。「キリストは死に、キリストはよみがえり、キリストは再び来られます。」

むらさきの季節

主教 植田仁太郎

 手元にある、教会のお祭りの日や各シーズンを色で区分した、文字どおり教会(用の)カレンダーによると、三月はほとんどむらさき一色である。各シーズンの色分けは、勝手にこのシーズンはこの色にしようと便宜的に付けられたのではない。教会内の聖卓に用いる布や司祭が身に付けるストールの色も、すべて伝統的に季節ごとに決められている。
 三月がむらさき一色なのは、「大斎」と呼ばれる、ざんげと禁欲の季節とされているからである。むらさきは罪のざんげと新たなものへの期待を示すという。イエス・キリストが四十日間荒野で断食されたという故事にならっている。
 日本の社会でも、三月は、いわゆる年度末で、学校生活や社会生活の区切りの季節で、人、それぞれの人生の中で、四月からの新たな展開を準備し期待する月でもある。私たち信仰者の四月の復活祭の喜びに備える、その前の、ざんげと禁欲の季節に、やや呼応する季節であるかも知れない。
 ただし、モノがあふれ、倫理・道徳上のタブー(禁忌=してはならないこと)が無くなってしまったような現代では、禁欲とざんげほど時代遅れの行動は無いかも知れない。みずからの意志で、欲望を規制し、みずからの悪業に目を向ける――これほど不人気な呼びかけは無いだろう。しかし、それをみずからに課すことの、やがてもたらされる実りこそは、古今東西の人間の知恵と信仰が、ずっと訴え続けている真実であろう。