キリスト教会の功罪

主教 植田仁太郎

 キリストに従い、神を信じ、日々信仰をもって生きるということは、純粋に個人的な営みのように思える。しかしそうではない。そのように生きる人々を活かし育てる、教会という共同体が介在する。

 その教会は、イエス・キリストの死と復活を経て、形成されることになった。その教会が社会的勢力を持つようになって、世の中の動きや歴史に、様々な影響を及ぼすようになった。キリスト教信仰が世の中に貢献した点は今さら挙げるまでもない。教育や医療や福祉の分野で先駆的働きをした。学問や芸術の発展にも力があった。

 同時にキリスト教信仰の故に、世の中に負の遺産を残してしまったことも、私たちの現在の信仰を反省するために、忘れてはならないだろう。最近、アメリカ聖公会では、奴隷貿易禁止から二百年目を記念して、「懺悔の礼拝」が行われた。アメリカの南北戦争後の「奴隷解放」の宣言があって、それでも、形を変えて奴隷の身分は、十九世紀末まで残っていたという。こんな最近まで、特に西欧で奴隷制という悲惨な制度が残ったのは、聖書に「奴隷は主人に忠実に仕えなさい」という一節を含めて、奴隷制の悪は指摘されていないということから、それを正当化してきたことの中に大きな原因がある。これは教会の犯した罪のほんの一例である。

 キリストを信じる者が、みずからの敬虔と清さと謙遜とを深めることは、もちろん大切なことである。同時に、みずからの信仰の広がりと信仰者の共同体(教会)の在り方にも絶えず神の導きを祈ってゆきたいものである。

「しあわせですか」と問われて

主教 植田仁太郎

 最近の読売新聞の特集に、現代日本人の「幸福観(感)」についての世論調査の結果というのが報じられていました。
  私は常々、世の中の抱える問題や、次々と起る悲劇的な事件や事故に心を痛めることが多いので、六十パーセント以上の人が、今、しあわせだと感じていると回答していることに驚きました。もちろん、「しあわせだ」と感じる人々が、多数いらっしゃることに取りたてて問題だ、などというつもりはありません。ただし、そういう調査が行われて、そういう結果が表れたとして、「だから、どうなの?」という疑問は残ります。多くの人々がしあわせだと感じても、同時に、やっぱり多くの人々の痛みや苦しみや絶望感が無くなるわけでもありません。
  イエス・キリストは、「幸い」なのは、貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人……だと教えました。イエス・キリストにとっての「しあわせ感」は、自分の生活や日常の満足度というのは、全く考えられていません。イエスは人々の毎日の生活、特に食べることや労働することの重要さに着目していた方ですが、それでも、「幸い」なのは、毎日食べ物がある人、仕事がある人、などとはおっしゃいませんでした。イエスの教える「幸いな」人というのは、自分のことではなくて、他者・隣人へと心と生活を向けることのできる人なのです。
  信仰というのは、自分の生活の満足度を増すための営みではないことが良くわかります。

様々な人生、様々な歩み

主教 植田仁太郎

  過ぐる夏の間、世の中の色々なニュースがありました。
 その世の中の出来事の中で、最も多く時間を割いて伝えられたのが、オリンピックでした。オリンピックに出場したスポーツ選手それぞれに人生のドラマがありました。ある競技に国の代表として選ばれた人々は、長い年月の間訓練に訓練を重ねてきた、その成果をほんの数分のうちに発揮しなければなりません。(陸上百メートル走では、わずか十秒前後、時間のかかる競技でもせいぜい二時間)その短い時間内に、体力・精神力・そして多分知力を、最高に高めなければなりません。それを果たせた人も居たし、果たせなかった人も居たし、体調すぐれず出場も出来なかった人も居ました。これまでのすべての人生を賭けた競技に勝利し、栄光に輝いた人も居れば、平凡な記録のうちに忘れられてしまう人も居りました。
 どんな結果であれ、オリンピックの代表に選ばれる程に、その人々はあらゆる点で恵まれた人々であることは確かでしょう。
 同時に、八月十五日を中心に、第二次大戦の悲惨な戦線を生き残った元兵士達の悲痛な証言を、テレビで聞きました。生き残った人々の人生、生き残ることの出来なかった人々の人生、これまた人の一生です。またその家族の人生もあります。
 アフガニスタンで人々に奉仕する中で、殺されてしまった青年もおりました。そして決してニュースにならない、日々の生活に苦労し続けている多くの人々の人生があります。  神よ、あらゆる人が、それぞれの人生の歩みの中に、その意味を見出すことが出来る社会を造ってゆく上で、私たちをどうぞ用いて下さいますように。

夏の暑さとヨナの物語

主教 植田仁太郎

 いよいよ暑さの厳しい夏を迎えます。暑さ・寒さについて、聖書は特別に関心を向けてはいないようです。多分それは、聖書の生まれた、あのパレスチナの地の気候感覚を反映しているのでしょう。また山の頂の町か、緑したたる平原か、死海に連なる乾燥地かで、ずい分事情が違うでしょう。
  「暑さ」で思い出すのは、旧約聖書ヨナの物語です。ヨナは神さまの呼び出しに逆らって、ニネベの町に悔改を求める役を放棄して逃げ出します。しかし数奇な経験の後、結局ニネベに赴きます。神様は、ニネベを罰することをせず、その悔改の姿を認めました。ヨナはそれが大いに不満でした。「私にさんざん苦労させて、神からの大役を果たしたのに、結局、みんな赦してしまうんですか!」というのが、ヨナの不満です。ふてくされて原野に座り込んでしまいます。それを見た神さまは、ヨナを憐れんで、「暑さ」をしのぐとうごまの木を生やさせて、日陰を作ってあげました。「とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に影をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ」(ヨナ書4の6)とあります。
  しかし、翌日、神さまは、虫を送って木を枯らしてしまい、さらに熱風を送ってヨナを困らせます。そして、こうヨナを諭します。日陰があるかないか、そんなささいなことで一喜一憂するのか。私、神は、とうごまよりはるかに大切な、人間のいのちに気を配っているのだから、あらゆる人のいのちを出来るだけ支えたい、ということを知って欲しいのだと。

大災害と神

主教 植田仁太郎

 ミャンマーと中国で大災害が発生しました。それぞれの国の政府の思惑があって、その大災害の状況が必ずしもストレートに報道されておらず、もどかしい思いをしています。
  それでも、サイクロンと大地震で何万人いう人々が亡くなり、何十万、何百万という人々が被災したことは確かで、この方々が、通常の生活に戻ることがいつできるのか、いつ復興が果たされるのか、気が遠くなるほどです。
  信仰者は、このような災厄が人間に何故ふりかかるのか、と深刻に問わざるを得ません。ミャンマーや中国の被災者が、とりたてて人間として落度があったわけではありません。いわれのない苦難を強いられることになりました。これほどの大規模な災厄でなくても、私たちは人生の中で様々な不条理に出会うことがあります。当人や周囲の人々の責任は全くないのに、不慮の事故や病気に襲われます。
  神は、どうしてそのようなことが起ることをお許しになるのか、神は慈しみ深い全能者ではないのでしょうか。この問いは、人類が何千年にもわたって問い続けていることです。二千五百年前に書かれた旧約聖書「ヨブ記」は、このことをテーマにした戯曲です。ほんの二百年ほど前までは、人間の自然現象についての知識は極く限られたものでしたから、「全能者」がすべてをコントロールしているに違いないと考えてきたとしても当然でしょう。
  しかし現代では、地震やサイクロン(台風)が起るメカニズムはある程度分かっています。同時に、神さまが、あらゆる自然現象や個々人の人生の成りゆきを、すべてコントロールしているわけでもないと、私たちは理解しています。神さまが、苦難を造り出しているわけではありません。
  人生に避けることのできない苦難を、乗り越える力を与えてくださるのが神さまです。

誰のための信仰、誰のための宗教

主教 植田仁太郎

 神を信じる、仏を信じる、アラーを信じる、靖国神社に祀られているみ霊を信じる――これらの営みは、大変個人的な人生態度だと考えられています。そして、その「信じる」という人生への姿勢は、みずからの幸せや、解脱や、救いに通じる在り方だと考えられています。そのためにみずからに、ある戒律や道徳を課す、ということはそれなりに尊重されなければならないでしょう。
  最近のこと、例のオリンピックの聖火リレーの混乱の中で、長野の善光寺が、それに関わることを辞退したことが報じられました。善光寺幹部の間では色々意見があったそうです。混乱を避けるため、という一般論から、同じ仏教徒であるチベットの人々に、むしろ連帯する姿勢を示すべきだ、という意見まで――仲々まとまらなかったようです。
  この事態を論評した朝日新聞は、次のように述べています。「現実から超然とするところに宗教の価値を見いだす立場もあるだろう。しかし宗教者が他者の『苦』を自分の『苦』として心から分ち合うとき、以前と言葉や行動が違ってくるのはむしろ自然ではないか。」
  信仰や宗教は、みずからの幸せや救いや解脱を求めるレベルだけでなく、他の人々の「苦」を分ち合う次元を含むものだ、という理解は極めて大切でしょう。
  クリスチャンは、自分が神さまの良い子であるためにクリスチャンなのではありません。今、苦しんでいる人、傷ついている人、悲しんでいる人が、神さまの愛に包まれるようになるため――そのために、神さま、私をお用い下さい、と神さまを信じて祈っています。

春そしていのち

主教 植田仁太郎

 暑さ寒さも彼岸までと申します。年毎に、季節の変わり目が早まったり遅くなったりしますが、それでも、春分・秋分を境にして、はっきり変るものですヨ、という昔の人の見事な観察眼を示した諺だと思います。
  事実、4月を迎えますと、まさに「春」を実感します。森羅万象すべての「いのち」がまさによみがえったようです。
  この自然の営みのサイクルに見事に合わせたかのように、4月は、社会の様々なものが新しく出発する時、新年度、新学期として開始されます。まさに自然の営みと同じように新たな「いのち」の営みを始める時です。
  ところで「いのち」とは実に不思議な概念で、誰もがそのことを充分わかっているつもりなのですが、別のことばで説明しようとすると実にむずかしいことです。また物質ではありませんから、これがいのちだと指し示すこともできませんし、また力やエネルギーのように数値化することもできません。善悪の尺度を当てはめることもできません。敢えて定義すれば、みずから成長し、いずれ死ぬ(成長を止めてしまう)物体、とでも言いましょうか。そしていのちは、あるいのちから「生まれる」ということによってしか存在しないことも確かです。未だにそれは「合成」されたためしはありません。
  生まれ出るもの。成長するもの。新しいいのちを生み出す可能性を秘めたもの。
  私たちひとりひとりはそういうものとして存在しています。そして、イエス・キリストは「私は道であり、真理であり、いのちである。」とおっしゃいました。私たちひとりひとりが、イエス・キリストと共有できる「いのち」というものを与えられている、そういう可能性をいただいている、ということでしょう。

復活祭を迎える

主教 植田仁太郎

 毎年移動する教会の祝日である復活祭、今年は3月23日です。言うまでもなく、教会とクリスチャンにとって一番大切な祝日です。もちろんイエス・キリストの誕生日であるクリスマスよりも大切な日です。
  イエス・キリストの誕生と生涯ということだけでは、私たちの信じるキリスト教というものは生まれなかったでしょう。歴史の中に生まれ、生き、そして死んだイエス・キリストが「復活した」からこそ、この方が永遠に憶えられることになりました。
  イエス・キリストの復活についての最初の記述は、十字架上で刑死したイエスが葬られた墓に、死後三日目に訪れた女性達に起った出来事を記した、あの物語ではありません。イエス・キリストの復活を、文書でレポートとした最初の人はパウロです。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわちキリストが……死んだこと、葬られたこと、また聖書(旧約)に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(コリントの信徒への手紙15章3節以下)とパウロは伝え、さらに何人もの人々に復活したキリストが現れ、ついには「月足らずで生まれたような私にもあらわれました」と証言しています。
  復活とは、息をふきかえしたのでもなく、幻視の結果でもありません。イエス・キリストが全く新しいいのちをもって、「生きて」いることを示しています。
  その復活のキリストを信じ、従う私たちも、その全く新しいいのちにあずかることができる――その深い喜びが、復活祭の喜びです。

それぞれの信仰、それぞれの神

主教 植田仁太郎

 アメリカの大統領選挙の候補者指名についてのニュースが毎日報道されています。その背景解説の中で、アメリカ人一般と宗教の関係が紹介されていました。
 ある調査によれば「人生にとって宗教は重要だ」と考えるアメリカ人は、「とても重要」「ある程度重要」を合わせると、全人口の82%だそうです。また「神を信じる」と答える人は86%にのぼり、天国や地獄を信じる人も70%以上ということです。
 このような答を出した人の理解する「宗教」「神」「天国」「地獄」は、みな、キリスト教の教えが前提になっているようです。「神」はともかく、天国や地獄の存在は、キリスト教本来の教えというより、はるか昔からどの文化の中にもあった、言わば人々の「俗信」に近いものでしょう。アメリカ国民の宗教的背景は確かにキリスト教的ではあるでしょうが、人々の信仰表明が、そのままキリスト教の説く真実だとは言えないでしょう。
 ひるがえって、日本の状況はどうでしょうか。お正月に初詣でに出かけた人は、全国で九八一八万人だったそうです。しかし、その人々全てが「神を信じている」とは答えないでしょう。福田総理大臣は伊勢神宮へお参りした後の記者会見で、「五穀豊穣をお祈りしました」と語っていました。でもいわゆる神を信じているのかどうかわかりません。
 明らかに、日本人一般とアメリカ人一般の神観念は異なっています。唯一絶対の神もあり得るし、自然界に色々な形で宿る神々もあり得るでしょう。キリスト教は、聖書の伝統の中で形造られてきた神のイメージの上に、イエス・キリストという方の生き様こそ、神を示すものだと理解しています。そして、神は、いつも私たちの真剣な問いかけに、応答してくれる、そのような「生きた」神であると、私たちは信じています。イエス・キリストがそういう方であったからです。

信 頼 こ そ

主教 植田仁太郎

 過ぐる一年は、世の中あげて、まさに不信の渦巻く一年でした。
 食品表示(賞味期限や産地など)の偽装は、人々の信頼を裏切る、最悪のケースだったでしょう。しかも、本来、人々からもっとも信頼されていたはずの名店や老舗といわれる製造元が、その信頼を逆手にとったのですから、なんともやりきれない思いです。

 また、お役所がきっちり管理してくれているものと、誰も疑わなかった、個々人の年金のデータが、何千万人分も、あやふやだったという事実が明るみに出ました。
世の中、怪し気な、そして疑わしいことはいくらでもある、というのはいわば私たちの生活の知恵ですが、最も信頼できると疑いを差しはさまなかった会社や役所が、その信頼を良いことに、不正を働いていた――そういう社会そのものが大変悲しい社会です。

 社会の制度や法律は、本来、お互いが信頼できる社会を保つために考え出された工夫なのでしょうが、その根底には、お互いがそれを尊重しなければならない、尊重するはずだ、という信頼が置かれていて初めて、法律や制度がその機能を発揮します。
人間同士の信頼は、ややもすればこわれ易いものです。制度や法律だけでは、とてもそれを保障できるものではありません。

 人間同士の信頼は、神様への無限の信頼を媒介して初めて確実なものとなります。
不信に満ちたこの世の中に、教会こそは信頼の連鎖を作り出す人の集まりでありたいと思います。