信仰のうちに育ち、育てる

主教 植田仁太郎

 先日ある教会で4人の小学生が、「堅信式」を受けました。堅信式というのは、洗礼を受けてクリスチャンとして迎え入れられることに引き続いて、その信仰を主教の前でもう一度確認して、主教から手を置いてもらう儀式です。生まれたばかりの時に、両親の願いによって洗礼を受けた幼児が、ある程度信仰を自覚できる年令になった頃に、この堅信式を受けるケースが多いようです。
 先日の4人は、それでもまだ小学生です。それで、その子供たちに、この儀式の機会に次のように語りかけました。  「みなさんは、洗礼を受けた時は赤ちゃんだったので、その時のことを憶えていないでしょう。でも、お父さん、お母さんが、みなさんが神さまを知るように育って欲しいと願って、洗礼を受けるようにしました。今、みなさんは、ちゃんと神さまを知るようになりました。でも、堅信式を受けるのは、神さまのことが全部わかったからではありません。みなさんが、とても立派な良い子だからでもありません。
 「堅信式を受ける人は、『神さま、ありがとう』『神さま、おねがいします』『神さま、ごめんなさい』と、この三つのことを心から言える人です。みなさん、この三つを言えますよね?」と語りかけましたら、4人ともニッコリ笑って大きくうなづいてくれました。
 この三つを憶えて育っていってほしいと思います。

いつもの期待をこの年も

主教 植田仁太郎

 新しい年の区切りの時に、誰もが、人生の新たな展開を、待ち望んだり、自らに課したりするようです。俗に、「新年の抱負」ということでしょうか。
 私は、神への信仰のうちに、いつも、世の中のまっただ中で、神さまのわざ、というものに出会いたいと願っています。私は、神さまを、キリスト教の教会のうちに留めておくことはできないし、キリスト教の教義に従って働く方だとも思わないし、必ず信仰深いクリスチャンの中で働く方だとも思っていません。
 神さまは自由に、そのわざを必要としている人々の中で、「神」の痕跡さえ残さずに、働いておられると確信しています。
 クリスマスの日の夕刊に、ボランティアで宇都宮の学校を警備している人たちが、学校近くでいつも野宿している人の姿が見えないのを心配して、ひん死のその男の人を発見した…というニュースを伝えていました。病院へ入院させたばかりか、結局住む所も世話してあげたようです。心暖まる話です。私は、こういう、ある人々の気取らない善意と、それによって喜びを感じる人々の間に、神さまの働きを見ます。
 人々に、静かに「エライなぁ-」と感じさせるわざの中に、神さまが働いていると確信します。そういう神さまの無言のわざに、今年も出会いたいと願っています。
 神様が、皆さまの所でも働いて下さいますように。

クリスマスを迎える

主教 植田仁太郎

 十二月に入ると、町は、クリスマスの飾りやイベントの解禁の時と考えているようです。それは、イスラム教社会を除いて、世界中の都市で共通の現象のようです。元々は、キリスト教の根付いた社会で生まれた、多種多様な“クリスマス文化”が商業主義とともに、世界的に広まってしまった結果でしょう。
 クリスマス――カード・ケーキ・プレゼント・ツリー・キャロル・パーティー、これらすべてがこの“文化”の一部だと言って良いでしょう。
 キリスト教会の人間は、自分達こそ、クリスマス(イエス・キリストの誕生)を祝う、正当な資格を持っていると自負し勝ちですが、その教会の中にもその“文化”がかなり侵入していることも確かです。その文化は、必ずしも嘆かわしいことでも、憂うべきことでもないでしょう。いわゆる世俗でどんなクリスマスの迎え方があろうとも、教会の本来の迎え方、すなわち心静かに、「救主」たる方の存在の意味と、その方に応答すべき私たちの日常に、心を向ける季節だと思います。教会の定めているアドベント(来るべき方を迎える)季節とは、そのことを言っているのでしょう。

イエスがもたらしたもの

主教 植田仁太郎

 歴史上に現れたイエスというひとりの人物をめぐって、信仰の共同体が生まれ、教会という組織が生まれ、聖書という文書が書かれたり編さんされたりしました。そして二千年の歴史を重ねるうちに、イエスというひとりの人物をめぐって、さらに生み出されてゆくものは拡大してゆきました。キリスト教の教義や礼拝の形や、キリスト教の倫理・道徳やさらには、キリスト教芸術といわれるものや、実に多くのものが生み出されました。
 しかし、イエスというひとりの人物は、自分がそういう壮大なものを生み出す、その源になろうとは全く考えていなかったでしょう。弟子達と考えられていた人々も、イエスが処刑される前後には、どうも、その師を見捨ててしまった形跡があります。
 そうであるのに、その処刑されたひとりの人物をめぐって生まれた様々なものが、文化も歴史も全く異る日本の地まで達しました。  イエスが、そもそももたらしたのは何だったのでしょうか。教義でも道徳でもファッションでも思想でもありません。聖書を最初に書き記した人々、たとえばパウロやマルコという人々は、イエスのもたらしたものを「福音」と呼びました。これはギリシャ語を翻訳した漢語でしょうが、「良いニュース」という意味です。
 イエスという人物の人生、語ったこと、行為、それを、もう一度「良いニュース」として受け取ってはどうでしょうか。

目に見えない世界を求めて

主教 植田仁太郎

 私たちの生きている現代という時代は、「映像文化」の時代、「視覚優位」の時代だと言われる。
 印刷術の発明と読み書きの教育の普及は、口で伝えられる情報を耳で受けとめるという文化を社会の隅に押しやってしまった。さらに時代は下って、写真・映画・テレビ・コンピューターが、あらゆる映像を間断なく提供し続ける世界を出現させた。目に映るもの、映像化できるものが、絶大な価値を持つことになった。「目に見える情報や出来事を追いかけることに追われているうちに、見えないものについて考えるゆとりがなくなった」とある批評家は言う。
 さらに、映像化されるのは全て光が当てられているものである。(闇は映像にならない。)実際の都市空間も光に満ちていて、日常的に闇を体験することもなくなった。
宗教とりわけキリスト教の語る、人間と世界の真実は、この映像の時代が私たちに提供するものの対極にある。目に見えない、映像化できないものにこそ真実がある。人生と世界は、いつも闇と隣り合わせである。闇と暗黒を体験しないでは、光と喜びも体験できない。
 秋の夜長、ある時は、私たちにまとわりつくあらゆる映像をしゃ断し、またできればあらゆる人工の音もしゃ断できる所に身を置いて、みずからの魂に語りかけてくる声に、耳を傾けたらどうだろう。

涼しい風を感じる頃

主教 植田仁太郎

 九月に入っても、まだしばらく暑い日が続くのでしょう。早く秋の涼しい風が吹いて来ないかなァ、とその日を期待しつつ。私の若い頃、キリスト教団体の職員として、バンコク・シンガポールという熱帯の都市に駐在したことがあります。熱帯の地に暮らしながら、毎年九月になると、日本に居る時と同じように、心の中でもうすぐ涼しい風が吹くようになるんだ、と楽しみにしている自分が居るのに気付いて、我ながら苦笑してしまったことが度々ありました。

 キリスト教誕生の地、エルサレムの夏もかなり厳しいものです。しかし、日射しは強いものの、夕方になり陽が傾くと、本当に心洗われるような涼しい風が吹き始め、それが夜半まで続きます。その風を石造りの建物にできるだけ取り込んで、昼間の暑気の残りを室内から追い出します。

 昔のヘブライ人も、この夏の夕方の涼風を、神の楽園にも吹いているすばらしいものと受け取ったようです。有名なエデンの園で、最初の人類であるアダムとエバが“禁断の木の実”を食べてしまったその日の夕、「風の吹く頃」(創世記3-8)主なる神が園の中を歩く音を聞いて、二人はハッと恐れを抱きます。人類がその犯した罪を気付く瞬間です。

 暑い日盛りの後の、天国を感じさせる素晴らしい涼風は、果てしない神の恵みと、それに仲々気付かない人類の愚かさの、その二つを同時に、私たちに思い起こさせます。

鍛錬の夏、実りの秋

主教 植田仁太郎

 夏休みの季節です。自分が小学校の頃から、長い休みがやってくるのだと、何か心がわくわくする季節でした。
 やがて中学・高校・大学と進むにつれて、この季節は(夏休みは)、勉強の遅れを取り戻したり、読まなければならない本を読破したり、書かなければならない作文やレポートを、「よし!やるぞ」と決心する季節になりました。そして決心するだけで、結局、決心したことをやりおうせないまま、秋になってまたアタフタするということの、(人生は)連続だったように思います。ふり返ってみると全く“鍛錬の夏”をみずからの努力で獲ち取ることはできませんでした。昔、大学の指導教授に、「鍛錬の夏を過ごさない者には、実りの秋を迎える資格が無い」と言われたことがあります。
 聖書の倫理的な教えは、この「鍛錬」に通じる人生態度、すなわちすべてに刻苦勉励・謹厳実直たることを教えているかのようです。教会の修道者たち、宗教改革者たち、そしていわゆるピューリタンの伝統を引き継ぐ多くの市民にも、そのような倫理は大切にされているでしょう。日本に、明治以降に伝えられたキリスト教も、そのような倫理観に支えられた欧米の宣教師たちの影響を色濃く残しています。
 同時に、イエス・キリストの福音(良い知らせ)は、人間としておおらかさを喜びとしています。神の愛は、人の善悪や、人の決意や、人の能力の違いを越えて、あるがままの人間を大切なものとして、注がれています。神に愛される人間は、ことさら倫理的に優れた人だとすることは、むしろ神の意に反することです。
 さあ、鍛錬の夏を、もう一度やってみましょうか。また結局目標を達成できず、それで良い!と言って下さる神さまの慈愛にすがることになるのでしょうか。

いのちと力の輝く季節

主教 植田仁太郎

 各地の桜の開花や満開のニュースで春の到来を実感しているうちに、アッという間に、木々の若葉が芽吹いて、日に日に輝きを増してゆきます。自然が一斉に、いのちとその力の輝きを見せるこの季節に、やはり、教会もいのちと力を祝い憶えるお祭を迎えます。
 ひとつは復活祭で、言うまでもなく、イエス・キリストの死からの復活を祝います。「祝う」という表現は不充分かも知れません。イエス・キリストの死からの復活が起こり、体験されなかったら、そもそも教会もキリスト教も生まれなかったでしょう。その復活を「祝う」どころか、その日には、その重大さを深く深く心に刻みました。(今年の復活祭は4月16日でした。)いのちは死の前に無力とされています。いのちは死をもって終る、というのが人間の常識です。復活の出来事はその常識を覆し、歴史上ただ一回、いのちが死を乗り越えたということが起りました。宇宙的時間の流れの中で、将来、神の支配し給ういのちのうちに、同じことが人間に起るだろうと聖書は伝えています。
 6月4日は「聖霊降臨日」と呼ばれる、教会にとって、もうひとつの大切なお祭りの日です。聖書に記された、弟子たちに不思議な力が天から与えられた出来事を記念する日です。イエスの死と復活に続いて、それを信じた人々に、神からの信じられないような力が与えられたということです。
 春に植物が輝きをとり戻し、その生命力の偉大さを発揮するように、人間が、神からの力をいただくとき、信じられないような働きをすることは、私たちみんなが知っています。

春を迎える前に

主教 植田仁太郎

 キリスト教会のお祭りや祝日は、世界各地の地方に、もともとあったお祭りにその起源があり、それに新たにキリスト教の意味が与えられた、という例が少くありません。たとえば、クリスマスですが、もともとは各地で祝われていた冬至のお祭りです。冬至を境に一日一日と日が長くなり、光に浴する恵みが増してゆく--そのお祭りの意味とイエス・キリスト誕生の意味が、見事に合体されたものです。
 もうひとつ大切な教会のお祭りは、「復活祭」--キリストの死からの復活をお祝いする日です。これは、明らかに、ものみな芽吹く春の祭典と結びついたものです。復活日の決め方は、かなり複雑ですが、春分の日を基本にしていることは間違いないところです。あふれる陽光と、暖かさと、そして植物の再生は、まさにキリストの死からの復活を喜こび合うに相応しい季節です。
 文字どおり、自然は冬の間すべて死んでいるも同然です。その冬を、教会は、さらに、禁欲と断食の季節と定めました。それはイエスが、荒野で四十日間修行をしたという故事に呼応します。
 復活の喜こびを祝う季節の前の、禁欲の季節。これは、ただ春の前の冬、という季節の在りようを反映したのではありません。それは、真実というもの、本当の喜こびと恵みは、苦難と犠牲をみずから引き受ける、ということがあって初めて与えられるものだという、キリスト教の深いメッセージを伝えるものでもあります。

1月1日に想うこと

主教 植田仁太郎

 その昔、世界のほとんどの社会が、農耕を中心とする社会であった時代、新年を迎える日は、いわば特別な一日として区別されたのだろう。その特別な一日は、現代の都市化され高度に組織化された社会でも、名残りをとどめている。役所や学校や工場や仕事をしなくても良い機関は、すべてその日は仕事を休む。その日は、多くの人々にとって、手帳に予定を書き込むことのない空白の一日であろう。
 その昔特別な日は、共同体を憶え、家族を憶え、一応区切られた時の流れを憶え、これからの将来を憶える日であっただろう。共同体、家族、時(人生・歴史)、将来を意識にのぼらせるというのは、とりも直さず、いわば宗教的(哲学的)営みである。その名残りも現代にある。多くの人々が初もうでに出かける。  ただし現代では、この日が、特別な日でも空白の日でもない。普段と変わらずあるいは普段以上に仕事に精を出さなくてはならない日となってしまった人々がどんどん増えている。あるいは、仕事に追われ、仕事以外にも休日をつぶされてゆく人々の、本当に数少い、空白の日かも知れない。
 仮りに1月1日でないにしても、現代にとっても、人間には「特別な日」「空白の日」は絶対に必要であろう。つまり、共同体と家族と人生と歴史、それに将来に想いを馳せる真の意味の「休日」が、私たちには必要であろう。  [ところで、多くの宗教では、その一年のサイクルを必ずしもいわゆる西暦上の1月1日と一致させていない。それぞれ信仰内容に応じたカレンダーを持ち、そしてそれに呼応した宗教行事を守るからである。キリスト教の新年は、クリスマスを迎える四週間前に始る。1月1日は年初として祝われるのではなく、生まれたばかりのイエスが、命名された日として祝われる。]