主教教書(1) 新型コロナウイルス感染症に伴う注意喚起

2020年2月6日

主教 フランシスコ・ザビエル 髙橋 宏幸

新型コロナウイルスによる感染症発生が報じられ、国内でも感染事例が公表されています。
同感染症をめぐり、不確かな情報に基づいて、いたずらに不安をあおるようなことは避けなければなりませんが、感染予防への備えは不特定多数の方が集まる教会に於きましては不必要とは思えません。
つきましては、教会内外の人びとの健康を祈り、より良い行動をとられるよう、当面の間、以下のことを心に留めてくださるようお願い申し上げます。

1 飛沫感染予防・ウイルス拡散を防ぐためマスクの着用と、こまめな手洗いの心がけをお願いいたします
聖堂や会館等の入口に手指消毒用のアルコール設置をお願いいたします
2 体調不良の場合は、無理をせず聖餐式への参加自粛をお願いいたしします
咳、発熱、呼吸困難の場合や、37度以上の発熱など、風邪の症状がある時は当面の間、
聖餐式への出席はお控え下さるようお願いいたします
3 聖水盤のある教会では、使用を控えるようお願いいたします
4 聖餐式中のマスク着用は構いません また、聖書朗読者やアコライトなどの礼拝奉仕に携わる方がたも同様、マスク着用は構いません
5 司式者はじめ御聖体を扱う方がたは、聖餐式前の入念な手洗いをお願いいたします
6 日頃、インティンクションの形を取られている際には、サーバーや信徒奉事者にパテンやシボリウムを持っていただくなどして、司式者(分餐者)が聖体をブドウ酒に浸して授ける方法をお取りください
  但し、このケースが困難な際には、あるいは一種陪餐を希望される方が生じた際には、非常時ゆえに一種陪餐での対応もご考慮ください
7 教役者に体調不良や、発熱などが生じた場合には、聖餐式執行を自粛するようお願いいたします
  なお、その際には「み言葉の礼拝」等、信徒の方がたによる礼拝を守られるようご考慮ください。その際には急なことであり、教話はなくても構いません
8 「平和の挨拶」は、握手等は避け、会釈に留める等ご考慮ください
今後も推移を見守りますが、行政から集会自粛要請があった場合はそれに従い、対応を定めてまいります
尊い命を失った方々の魂の平安、感染した方々の回復と感染の収束を切に祈ります
(尚、この文書は、日本カトリック教会東京大司教区菊地功大主教が2020年1月31日に出されました「注意喚起」を参考に、日本聖公会の礼拝に適当な言葉遣いに書き換え、編集したものです)

主教からのメッセージ

主教 フランシスコ・ザビエル 髙橋 宏幸

 新年のご挨拶を申し上げます。
 閏年を除けば一年365日、一日24時間、一時間60分と全人、全世界共通です。共通しているからこそ、生活上、仕事上、種々の約束をする上でも便利であるとも言えましょう。もし、この数字が、個人の好みや都合、国や地域によって決められたり、好き勝手に操作されたりすることが起ころうものなら混乱を招くこと必至でありましょう。
 どこででも、誰にでも共通の数字、時の刻み方であるにもかかわらず、年々時の経つ速さを痛感させられます。時計の針のスピードが速まったわけではありませんし、カレンダーが一枚減ったわけでもありません。私たちの感じ方、時というものに対する在り方、生き方そのものに因るところ大であると思えてなりません。大都会東京で働いている時に感じる時間の流れや速さと、都会を離れて大自然の中でゆったりと過ごしている時に感じる時間の流れはどこか違った感じがします。楽しいこと、好きなこと、心込められることをしている時、時間はあっという間に流れます。嫌なこと、苦痛を伴うことしている時には1分が1時間にも感じることがあります。
 取り分け一月前の12月は「師匠も走る」と書くだけに、忙しい様を彷彿とさせられますが、わが国ではクリスマスあり、年賀状あり、お正月の準備あり、神社への初詣ありと、マンガの世界なら神様も右往左往する様子が描かれるかも知れません。  
 さて、肝心要の聖書には、「神様の時間」というものが描かれています。新約聖書の原語であるギリシャ語では時計やカレンダーで計れる時間を表す「クロノス」と、神様の働きがなされている「まさにその時!」を表す「カイロス」とがあります。時に、このカイロスは異常な程ゆっくりとしたものに感じることがあります。せっかちな人なら「待っても、待っても一向に」という思いに駆られるでしょう。エジプト脱出然り、カナン定住までの道のり然り、イエス様のお誕生を巡っての出来事然り、イエス様の荒野での出来事然り、神様の働きはじっくり、ゆったりとも言えます。しかし、同時に着実に、確実にでもあります。待つことが苦手になった現代人には聖書のメッセージは相容れなくなったとは思えません。むしろ、生き急ぎ、生き急がされているこちらに課題があるようです。

2020年1月

主教からのメッセージ

主教 フランシスコ・ザビエル 髙橋 宏幸

  子どもの頃も学生時代も、1分は60秒で1時間は60分、1日は24時間、1年は閏年でなければ365日、その長さは全く変わっていないにもかかわらず、時の流れの速さを痛感します。「世の中が目まぐるしくなったから」と言う人もいるでしょう。「スピーディーな時代になったから」という意見もありましょう。数多意見や考え方はありますが、一番は、やはり「自分が感じる」という点にあるようです。
 そのような中、十字架を目前にされたイエス様が、ベタニアに暮らすマルタに言われた言葉、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」を、時折思い浮かべます。イエス様は、マルタを非難してはいらっしゃいません。見下してもいらっしゃいません。そうでは無しに、マルタの選び違いを指摘していらっしゃいます。その背景には、次のことがありました。マルタには妹のマリアがいます。ところが、姉がイエス様への持てなしで忙しなく働き、動き回っている一方で、妹のマリアはイエス様の足もとに座って、その話に聞き入っていました。普通に見れば、姉が忙しく働き中、座って話に聞き入り、手伝おうともしない、気が利かない妹と非難することもできることでしょう。しかし、この期に及んではイエス様には時間がありません。十字架は、直ぐ目の前に迫っています。マルタは、心を込めてイエス様を持てなそうとはしていますが、ある種「マニュアル的」な彼女は、「今この場面では?」という判断、選択、応用が利きませんでした。
 一方、妹のマリアは、状況を敏感に感じ取る力に長けていたように見受けられます。状況を敏感に感じ取り、目の前にいらっしゃるイエス様と、その置かれた状況を感じ取り、心を向けることができたからこそ、この場でのより望ましい選択をすることができました。それを裏付ける、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」というイエス様の言葉が後に控えています。
 今の時代、選択肢が多すぎるがゆえに、選び取ることの難しさが増し加わっていることも感じます。けれども、選択肢がいくら増えようと、大事なことは自分の中に揺るぎない基準と軸の有無のはずです。また、余り意味の無い比較に一喜一憂したり、心を乱したりするのも、同じく自分の中の揺るがぬ基準と軸の有る無しに因るのでしょう。もちろん、いとも容易く基準や軸を作り上げられるのならありがたいことですが、中々上手い、手っ取り早い方法は見つかりません。けれども、手っ取り早さだけを求め、マニュアルやHow Toに走るのも、これまた危険でもありましょう。
 しかし、私たちの周りには数え切れない程の命の営みがあります。まさに「生きた教科書」「軸を創(造)る生きたヒントの宝庫」と言えます。「命ある人から学ぶ、人に学ぶ」ことを蔑ろにすることだけはしたくないものです。

2019年6月21日

新主教からのメッセージ

主教 フランシスコ・ザビエル 髙橋 宏幸

 物事には得手不得手とありますし、皆が皆プロになれる訳でもありません。しかし、そこには教え方、教わり方というものも大きく関わっているようにも思えます。例えば、スポーツの世界では、「もっと足を動かせ!」「膝を柔らかく使え!」「もっとしっかりボールを見ろ!」と、何度も何度も言われますけれども、誰もが直ぐに出来るようになれば苦労は要りません。幾ら励ましているつもりでもあっても、肝心の相手に叱責としてしか響かなければ、却って緊張感を与えるだけでしょう。
 むしろ、なぜ上手くいかないのか、その理由を一緒に考えるという大切なプロセスを経て、さらにこういうアドバイスの仕方もあるはずです。それは、「あと一歩頑張れば追いつけたぞ!」「今のボールは生きていたぞ!」「体の軸がぶれていなかったから、今のボールは体重がのっていたぞ!」等々、いいところに目を付け、褒めることで、技術が上向きになるだけではなしに、余分な緊張もほぐされていくことでしょう。
 スポーツに限らず、どうしていいか分からずにいるところへ、やれ「下手だ」、「何で早く走れないんだ!」と厳しく言っているだけでは、相手には励ましとしては響き難いことでしょうし、加えて余分な緊張をも強いることになるでしょう。否定的な言い方や発想よりも肯定的なものの言い方や発想は、その先に生み出す可能性を遥かに豊かに秘めているはずです。
 イエス様は、ものわかりの悪かった弟子たちを見放すこと無く、優しく、時に厳しく育て続けられました。そして、その根底に置かれていた心とは「無い物探しの心」ではなしに、「有るもの探しの心」でした。もっとも、無いものを探し続けても、無いものは無いままです。有るものを探し、一緒に喜ぶ、そこには人を育て、伸ばす極意とも言えるものが潜んでいたことでしょう。無いもの探しにエネルギーを費やすことではなく、有るもの探し、与えられているもの探しにエネルギーを注ぎたいものです。

2019年1月18日

積極的考え方の力

主教 アンデレ大畑喜道

 本年1月から健康上の理由により休養させていただいておりましたが、6月より仕事に戻ることができました。教役者や信徒のみなさまにはご心配をいただき、またお祈りいただきましたこと深く感謝いたします。
医師から「とにかく休養することが一番の薬です」と言われ、思いがけず半年間休養期間を過ごしました。当初は1か月くらいと言っていたので、家族も戸惑ったと思います。最初のうちはどのように休んでよいかもわかりませんでした。
仕事をしない罪悪感、山積みになるメール。本を読むことも、祈りをすることも、聖書を読むこともできず、勉強部屋に入ることもできない日が続きました。ある日曜日に教会の礼拝に出ると、私の顔を見た代祷の係りの人が困ったなという表情を見せました。「週報の病床にある人の中にあるのですが、ご本人がいても祈りの中に加えていいものでしょうか」と問われました。本人がいる前で、皆が祈ってくれました。自分は祈られている。「自分の力だけでどうにかしようとしないで、神を信頼することをもう一度思い出しなさい、あなたのためにも福音の種をまき続けているのですよ」という声を聴いたような気がしました。少しずつ本をめくることができるようになり、ある人が「自分もそうだったのだけれども、少し良くなったら読んでみてください」と一冊の本を紹介してくれました。ノーマン・ピール著『積極的考え方の力』という本です。パラパラとめくると、あなたが出会った聖書のみ言葉を繰り返し唱えなさい。それだけをすれば世界が変わります。という文に出会いました。騙されたつもりでロザリオを繰りながら「神はいつも私たちと共にいる。」と繰り返しました。世界が確かに変わったのです。喜びの光が見えてきたのです。皆さんの祈りによって、そしてみ言葉によって少しずつ回復してきました。まだ夜の会議には限定的に出席するなどリハビリ中ですが、今回のことで、祈りとみ言葉の力を思い知らされました。
宣言することができます。神は常に私たちと共にいて祈りを聞いてくださる。
感謝と共に

2017年7月27日

金なんか要らないよ、きれいな海を返してくれ

主教 アンデレ 大畑 喜道

DSC_0136_r

 10月の主教会は福島県郡山の聖ペテロ聖パウロ教会で行われました。

 毎回、主教会では人権の学びの時を持っていますが、今年は最終日に福島第1原発の被災地域を訪問し、仙台まで被災地を訪問しました。高速を降りてすぐにガイガーカウンターが警告音を発しだしました。促されてマスクをし、立ち入り禁止区域近くまで行きました。かつては子供の声が聞こえていたであろう学校は草に覆われ、駅舎も線路も草が生えていて、本当にこれが現実なのかと思い知らされました。除染中というのぼりだけがたなびく中、時折、工事車両だけが通り過ぎていきます。除染した土を入れた袋がうず高く積まれています。全くのゴーストタウンの中を訪問しながら、再びこの地で笑顔で食卓を囲むときは来るのだろうか、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。これから私たちはどのようにしていけばよいのだろうか悩んでしまいました。

 新地町の仮設で被災された方々と話す機会もありましたが、「試験操業でとれた魚を孫に食わせてやれないこの悔しさや、切なさがわかりますか」と迫られて、大震災から4年以上たって、しわ寄せがますます弱者に押し寄せている現実に私たちは、決して忘れない、祈り続けますとしか言えませんでした。

「金なんか要らないよ、きれいな海を返してくれ」その声がいつまでも頭から離れませんでした。東京に住んでいる多くの人々はニュースも聞かなくなり、その現実が分からなくなってしまっています。少しでも思い起こし祈り続けていきたいと思います。

スーパードクター

主教 アンデレ 大畑 喜道

 精神科医とお話をする機会がありました。自分は切ったり張ったりするようなゴッドハンドも持たない。外科の先生のように派手ではないし、感謝もされない。自分のところにやってきて何かが解決すると来なくなる。怒こられたり、罵声を浴びせかけられることもある。しかし派手に治すことができなくとも、感謝の言葉をいただかなくても、自分が寄り添った患者さんが立ち直ってまた一歩を踏み出してくれるのは何よりもうれしい。現代社会は複雑になり、気持ちの整理がなかなかできないで、助けてともなかなか言えないような苦しむ人がたくさんいる。自分はそんな人の少しでも役に立てたらと思うんです。牧師さんも同じですよね。何か、目に見えるような、派手な技術はないけれども一緒に祈っていく中で、また勇気を与えられて立ち上がっていく人がいる。まさにこの世のスーパードクターですね。ちょっと面はゆい感もありましたが、自分の召し出されている役割を垣間見た瞬間でした。

数  独

主教 アンデレ 大畑 喜道

 小職の妻の趣味はいろいろありますが、数独もその一つです。毎日の日課のようにしています。ルールは単純なものですが、はまりこむようです。目をしょぼしょぼさせながらやっているので、時々、脇からここはこうではないかと余計な口をはさむと、たいてい間違っているようです。升目に空いた数字を埋めていって完成させる。隙間を埋めていくのに何が面白いと思う方もあるかと思いますが、ふと思うに牧師の仕事もこれと同じようなものかもしれません。何か物足りない、むなしい思いを抱いている心に寄り添い、神からの大きな恵みを埋めていく。周りから時々、ちゃちゃが入っても、神の言葉をしっかりと抱いて、ともに祈りあい、隙間を埋めていく。世の中の人からは何が楽しいのだと思われようが、目の前に隙間があるのを見つけると、神の恵みでいっぱいにしたくなる。時には周囲の誘惑に騙されると、とんでもないことになってしまうこともあります。しかし毎日、振り返り、神の恵みをしっかりと見つめていくことが大切なことです。こんな素晴らしい仕事に召し出されて、今年も神学院に入学する人が与えられました。本当に感謝です。毎日、毎日この世界で悩みや悲しみで心がむなしくなっている人のそばに寄り添い、祈り、恵みを埋めていく尊い仕事をしていく人を、神は今日も探しておられます。

只管打座 (しかんたざ)

主教 アンデレ 大畑 喜道

 先月、主教座聖堂の主催で教役者の黙想会がナザレ修道院行われました。聖職按手前にリトリートをすることはありましたが、2泊3日の間、沈黙のうちに神と対話したのは、久しぶりでした。携帯電話もパソコンも持ち込みは禁止、朝の祈りの時から黙想三昧は、大変に素晴らしい霊的な養いになりました。神との対話を楽しむことよりも何かをしなければ、これをしなければと最初のうちは雑念にとらわれていますが、何もしないで、神との対話に身を委ねていくと、いろいろなものから自由になり、心も体もすっきりします。そして聖書の御言葉が心に響いてきます。日ごろ、何かをすることで安心する自分が神によって解放される恵みの時。これは信仰者にとって本当に大切なことです。しかし少しばかり時間と訓練も必要です。 大斎節が始まりました。様々な教会グループでも黙想会が開催されていますが、教区の皆さんが少しでも良い、神様との恵みの時を過ごすことができますように。ナザレ修道院では個人的な黙想のために宿泊をすることも可能です。ぜひ一度お訪ねになりませんか。聖公会の大切にしてきた霊的なものに出合うことができると思います。

ピ ア ノ

主教 アンデレ 大畑 喜道

  私は音楽は好きですが、楽器となるとまったく才能がないようです。子供のころ、ピアノの練習を嫌々させられたからでしょうか。最近、音楽用語の本を読んでいて、改めて気づいたことがあります。ピアノというのは弱くとか優しくとか訳される強弱記号ですが、ただ単に弱く弾くとか、強く大きい音を出すとかということではなく、優しく美しい、繊細さが要求される。それによって一つの曲が大きな広がりを持ってくるのです。大きい音だけでは一方的な騒音にしかならないでしょう。

  さて今度は楽器のピアノの歴史を考えるとそんなに古い楽器ではないようです。ものの本によると1700年代に最初のピアノのようなものが発明されたようです。当時、貴族たちは、自分のために楽器を作らせることが多く、フィレンツェのメディチ家の王子もその一人でした。彼はメディチ家に仕えていたクリストフォリに、チェンバロの改良を依頼しました。その頃、鍵盤楽器はチェンバロが主流でしたが、音が強弱に乏しいのが難点だったのです。クリストフォリはそれを改良し、「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(ピアノもフォルテも出せるチェンバロ)」を創りだし、それが徐々に改良されて現在の楽器になったようです。そしてこの時、この名前が短縮されて、「ピアノ」と呼ばれるようになりました。省略すらならフォルテでもよかったはずですが、小さな音を大切にしようという神様の大きな計画がそこにあったのかもしれません。この世界はどうしても声の大きい人が勝利する傾向があります。しかし教会はこの世界の中で本当に小さい音しか出せない人の声も大切にしていくことが求められているのではないでしょうか。この世界での小さな声を大切にしていくということは言葉では簡単ですが、実際に実行することは大変なことです。しかしどんなに困難であっても教会はピアノを大切にできるような共同体でありたいと思います。